三宅克己は徳島県で生まれ、明治14年、7歳の時に日本橋区浜町に引っ越しをする。その引っ越し先は、「門の前通りが俗に狐横丁といわれて、昼でも人通りの稀な、ほんとうに寂しい往来であった。それでも同じ通りのうちに、油絵の元祖といわれる高橋由一先生の画塾があり……」(三宅克己「思い出づるまま」)と、高橋由一の画塾の近くだったようだ。


そのことが三宅にとっては、夢を広げるきっかけにもなったようで、「私の住んでいた狐横丁の入り口に、油絵の画塾があった。それは、高橋由一先生の経営されていた、確か天絵学舎といったように記憶しているが、大勢の書生がみな油絵を習いに来ていた。毎週一回生徒の制作画を陳列して公開していたが、絵の好きな私は、それを父親に連れられて見に行くのが、なによりも嬉しかった。風船が空高くあがっている図や、南瓜が浮き出ているような絵が列んでいたのを覚えている。ちょうどその頃に、その画塾には、後年自分の先生と仰いだ、原田直二郎先生や、なおまた長原孝太郎先生などが塾生で、勉強最中であられたそうだ。」(前掲書)と、12歳の頃を思い出して書いている。


そのころの三宅にはすでに絵の才能が発揮されていたようで、「私は、小学校に入学する頃からもう絵は特別に好きだった。母の祖父に当たる人が、慰みに絵を描いたそうで、私の家にその描いた日本絵の画帖があった。私はその画帖を見るのがなによりも楽しみで、またその絵を半紙に写しとったりなどした。その内学校で図画を学ぶようになり、図画の上ではむしろ神童扱いされた。しかしいかに図画が上手でも、とうとう一度見事に落第をした。」(前掲書)と、図画にばかり夢中になっていたようだ。


それでも、かなり楽観的な性格だったようで、「いずれにしても私の画学は、全く学校中飛び抜けていたものと見え、いつも久松小学校の校舎に額に入れて飾られていた。それは、明治十八年、私の十二歳位のお話だ。」と、自伝に書いてあるのだから「神童」というのも確かな話なのだろう。