木下杢太郎は「故小林清親翁の事」に「狩野風画師にして且つ初めて我国に写真術を伝へたる下岡蓮杖に就いて正式に写真術を習得した。英人ワグマンに就いて洋風油彩画を覚えたのは其後である。」(吉田漱編『最後の浮世絵師小林清親』蝸牛社、昭和52年)と記している。下岡蓮杖に入門し写真術を習ったのも1865(慶応元)年で、五姓田義松、ワグマンにもこの年に師事している。


小林哥津「〈清親〉考」には「横浜にワグマンを訪ねたのは、暁斎との交際がはじまる前かもしれない。蓮杖叉は原胤昭から紹介されてはあったが、いかにもいかめしい英国領事館の晢の扉をくぐるのはずいぶん勇気がいったろう。横浜絵もまんざら絵空事じゃあないらしいと、その途々思い乍ら、昔、榊原謙吉と剣術興行に来た時に見た、春日神社の何というのか恐ろしく茂った大木の一本の木を目当てに野毛の山裾を左手に歩いてみた。……絵で見る孔雀は、いやな声だと、彼は思い乍ら、掘割を前にした領事館にたどり着いた。


ワグマン(1835〜1891年)、その人は、少しは日本語を話した。このビイドロの青い目の異人ワグマンを清親はどんな気持ちで眺めたらう。又、この手足のいやに長い、木偶のぼうの様な清親はワグマンの目にはどう映ったものか。青い深い目を通して、何を感じとったのか、一切清親も、推量できなかった。また、何の表情も出ない顏、相手に対して尊敬、称賛、そして何の愛想をも示さない顏は、ワグマンにとってもけっして面白いものではなかったろう。


……ワグマン自身の描く、日本庶民の日常生活のスケッチの上にそそぐやや侮蔑的な眼ざしを、清親は自分の上にもそそがれてゐるのを感じとったのであった。」(『最後の浮世絵師 小林清親』蝸牛社、昭和52年)
と、二人の出会いをまるで見ていたかのように書かれている。



ワーグマン画「この乗り物は"カンゴー"と呼ばれる。というのは、それに乗ればあなたは"行ける"(キャン・ゴー)からである。しかし乗り心地は良くない。かつぎ手は父祖伝来の雨外套を着用している。」(清水勲『ワーグマン日本素描集』岩波文庫、1987年)



ワーグマン画「"5分の休憩"すなわち人力車夫のあわただしい食事である。飯とお茶だけで薬味(食べ物に添える香辛料)はなにもない。」(清水勲『ワーグマン日本素描集』岩波文庫、1987年)


確かに、ワーグマンの絵にはやや「侮蔑的な眼ざし」を感じる。



さらに「しかし彼の作品、その英国風の水彩画には、云いようのない驚きと感服とで心をうばわれて了った。ほんとうに思った事、思ふ事は、ある程度言葉に出して云ふ事は必要である。その時の清親は、残念だが、そんな場合に口に出す言葉も礼儀も心得なかった。勿論、自分にも説明のつかない気持ちである。黙するより他に手のない清親を、相手は、何とも失敬な奴、無愛想、傲慢な奴と思ふより仕方はなかった。……ただ黙々と無表情にワグマンの差し示す丸い大理石の球の前に坐って、デッサンの鉛筆をにぎりしめるのであった。」(前掲)


「……その時さっと師匠のワグマンの手が出たと思ふと、ちょいと画面に目を走らせるやいなや、がらりと画板をほおり出して、何のリズムか、口笛をふきふき彼は庭へ出ていってしまった。露の干かぬ間どころか、重い色をこねくり廻した清親の恥の固まりみたいな花が目の前に転がってゐる。彼は何かぶつくさ口の中で云いながら、めずらしくすばやく、あたりを片づけると、庭にゐる人にひょいと頭を下げて、さっさと玄関を出てしまふ。


後から、何かどなるやうな声を背中に聞いてゐながら、足は一目散に小走りになって止まらない。彼は無性に自分が腹立たしかった。通りかかる運河の泊まり舟の舳の七輪からは紫色の煙が立って、もうじき夕方になるようだ。何とも云へない心淋しい気持ちであった。この時依頼、彼は、ワグマンのところへはいかなくなった。」(前掲)
と、かなり具体的な表現をしているが、だいぶ執筆者の脚色が入っているようにも思える。


執筆者、小林哥津氏は小林清親の五女、清親48歳の時の末っ子である。
「 小林哥津 こばやし‐かつ 1894‐1974 明治-昭和時代の小説家。明治27年11月20日生まれ。小林清親(きよちか)の5女。明治44年青鞜(せいとう)」の編集助手となり、同誌を中心に戯曲「お夏のなげき」、小説「麻酔剤」などを発表。大正3年退職し、外国文学の翻訳のほか、東京を回想する随筆や父にかんする研究資料をかいた。昭和49年6月25日死去。79歳。東京出身。仏英和高女卒。著作に「瑞典(スウェーデン)のお伽噺不思議な旅。」(「*kotobank*デジタル版 日本人名大辞典+Plus*小林哥津とは」より)