「……明治二十四年春には、イギリス人水彩画家ジョン・バーレイJohn Burleyが来日している。……日本各地で写生した油彩・水彩の風景画を芝の慈恵病院で公開し、この展覧会での水彩画を洋画家の安藤仲太郎が新聞評で激賞したということであるが、前年から洋画家を志して明治学院を中退し、大野幸彦塾に通うようになっていた三宅克己はこれを観て、『忽然自分の進む可き世界の入り口が目前に開かれたやうに思ひ』『全く狂気の姿でその展覧会の閉づる時間まで、飲食を忘れて見入った』という。(『近代の美術 日本の水彩画』第58号、至


三宅克己「ニューへヴァンの雪」水彩36×26.5 1898(明治31)年
「明治三十年六月、渡米した三宅は九月からニューへヴァンのエール大学付属美術学校に学んだ。一日二時間、レストランの手伝いをして生活費を得、午前中は学校で、モデルを描き、午後は郊外写生に出かけるのが日課であったという。学校の規模は大きくはないが、校舎も施設も立派で、小美術館もついていた。しかし、生徒の殆どが遊び半分の金持の娘たちで、研究の刺戟が無かったことから、三宅は翌年六月、ロンドンに渡ることになる。この絵はまだ在学中に描いたものであるが、白馬会で発表した時、鮮やかで、明るい、色彩と調子の遠近法で新しい表現と注目された評判のほどをうかがわせるものである。」(『近代の美術 日本の水彩画』第58号、至文堂、昭和55年)

「大野塾の先輩矢崎千代二、同僚の和田英作なども、ともども感銘したというバーレイの作品はセピヤやブラウンを多く使った伝統的な画法によるものであったが、三宅は以来、もう愚にもつかぬコンテの臨本模写などは一日もやる気をなくしてしまい、水彩画家たらんとの決意を固めるほどの衝撃を与えられたのであったから、その感動のほどを、画家の筆で忍んでおこう。」(前掲)


「バアレイの写生画は京都東山附近の景が多く、八坂の塔、清水の舞台辺、祇園神社、円山公園内など、とりどりに真に迫った作画が多かった。なほ東京芝三田、麻生の古川辺の景、乃至市川より千葉海岸等、如何にも日本独特の色彩が現れてゐて、実際の朝夕自分が往来して目に親しんでゐるその場所が、恰も鏡にでも映ってゐるやうに鮮やかに写生されてゐたのだから驚かざるを得なかった。」(三宅克己「思い出づるままに」、『日本人の自伝19』平凡社、1982年)


三宅克己「雨後のノートルダム」水彩36.5×25.8 1902(明治35)年、第7回白馬展


◎三宅克己(みやけ こっき)1874年徳島県に生まれ、1954年に没した。旧徳島藩江戸留守居役だった父が、蜂須賀家の養育係となったため、6歳のとき家族で東京に移住。近所には、洋画家・高橋由一の画塾があり、絵に関心をもつようになったと言われている。大野(曽山)幸彦、原田直次郎に洋画を学ぶが、来日中のイギリス人画家ジョン・ヴァーリー(バーレイ)の水彩画に感動し、水彩画家を目指すようになった。1897年、アメリカに渡り、一時イェール大学付属美術学校でも学んでいる。翌年ロンドンに移り、フランスやベルギーを経て帰国。その後、日本各地はもちろん、ヨーロッパ、アメリカ、中国へたびたび出かけ、風景画を描き続けた。1899年白馬会会員。同会の解散後は、光風会の創立に参加。1907年に文展(文部省美術展覧会)が開設されると、第一回展から出品し、以後、文展や帝展(帝国美術院美術展覧会)、新文展、戦後の日展で活躍。1915年の文展で2等賞(最高賞)を受賞。翌年から無鑑査となり、帝展、新文展では審査員もつとめた。水彩画を独立した洋画の一分野ととらえ、透明水彩の繊細な表現を追求するとともに、水彩画に関する著書を多数刊行するなど、水彩画の普及に尽力した。昭和初期には、写真に関する啓蒙書も執筆。晩年の1951年、日本芸術院恩賜賞を受賞している。(徳島県立近代美術館 2006)