日本に最初に水彩画を伝えたといわれるチャールズ・ワーグマンは、なぜ日本にきたのか。まさかわざわざ水彩画を伝えに来たわけではないだろうから。

アヘン戦争後約20年経過して、1857年北京協定が結ばれる。当時退役陸軍大尉であったワーグマンは、1857(安政4)年10月8日に起きたアロー号事件を取材する為に、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』(以後ILN)の特派員として広東にやってきた。



「ワーグマン自画像」(『ジャパン・パンチ』1862〈文久2〉年)


1860(万延元)年、英仏連合軍の北京侵略に同行。その翌年1861年4月25日、船で長崎に入る。約2週間後、イギリス公使ラザフォード・オールコックの一行とともに32日間を費やして上京。途中、途中の風景、風物などをスケッチ、《花魁》に興味を持ち写生を試みている。



ワーグマン画「ピストル携帯の外国人」文久から元治ころ