竹久夢二の『夢二画集 春の巻』(洛陽堂、1909〔明治42〕年12月)を購読した恩地孝四郎は、その感動を手紙にしたためて夢二宛てに届けた。その時の手紙の全文が、夢二の第2作目となる『夢二画集 夏の巻』(洛陽堂、明治43年4月)の巻末に掲載された。その手紙の書き出しの「私は今日学校の帰りを親しい友──やはりあなたの画がすきな──」とあり、この「学校の帰り」とはどこの学校に通っていたのかが気になって調べてみた。


後の「書窓」の発行人でもある志茂太郎は、「画集『春の巻』への、画学生恩地孝四郎青年ファンレターである。……あの手紙の始まりの『今日学校の帰りを』とある学校は当時の上野の美校なのであるが、手紙をキッカケに両者の親交が急速に深まって、何と、いつの間にか上野の森から『夢二学校』の方へ転校という事に相なってしまったのだから、恩地青年の夢二への傾倒ぶりが、いかほどのものであったかは創造に難くないだろう。」(「造本青春」、『本』麦書房、昭和39年5月)と記している。


しかし、横浜美術館ほか『恩地孝四郎 色と形の詩人』読売新聞社ほか、1994年)には、
1999(明治42)年12月の『春の巻』が発行されたころの恩地については、


1909(明治42)年3月に第一高等学校理科受験に失敗。
1910(明治43)年4月に受験して「東京美術学校予備科西洋学科志願に入学。
1910(明治43)年4月竹久夢二『夢二画集 夏の巻』(19日発行、洛陽堂)の巻末に夢二に送った『夢二画集 春の巻』の読後感が掲載される。

とある。そして、同年、赤坂溜池にある白馬会葵橋洋画研究所に通い始める。

1909(明治42)年12月21日消印で夢二から孝四郎宛てへ返事が来る。
「お手紙うれしく拝見しました。諸方からうける批評のうちにて最も胸にしみてうれしかった。君と逢って話がしたい。遊びに来てくれませぬか。第二集についてもいろいろと考えてはいれど恐ろしいものを生むようにおもへて全く手が出ない所です。長い手紙をくりかえしてよむだ。それに対して沢山の言いたいことがあるけれどまずまずハガキにて。」という内容だ。
つまり、『春の巻』を購読して手紙を書いたのは、上野の美校に入学する前ではないかと推察する。
となると、浪人中か? この学校とは? どこのことなのか。
あるいは、白馬会葵橋洋画研究所に通い始めるのが、第一高等学校理科受験受験に失敗した1999(明治42)年4月ころだったのではないだろうか。仮にそうだとすれば、この学校とは白馬会葵橋洋画研究所ということになる。


夢二の胸を打ち感動させた恩地の夢二宛て手紙の続きをもう少し読んでみよう。
「本屋のガラス棚の中に見たときからいゝ本だと思ひました。あの美しい眼の広告を見てからどんなに見たく思ったでしょうか。──店頭に見て私はほんとうに嬉しかった。私はこの画集の中で一番心細くおもったのは眼──眼です。眼に情韻が乏しくなったことです、私にはそう思へるのです。髑髏の花押の時代に引きかえすことは勿論望むのが愚ですけれど、あの時分よりは、筆の熱情が減じはしないかと思はれるのです。筆が達者になって、奔放になりはしないかと気になります。」


と、初信にしてはかなり手厳しい批判をしている。孝四郎は1891(明治42)年7月2日年生まれなので、この時の18才、夢二は明治17年1884年)9月16日生まれなので、25才。7才年長のプロに、予備校に通う学生が送った手紙にしては遠慮がなく、鋭い。「髑髏の花押の時代」とは、平民新聞に寄稿していた頃は、コマ絵の隅にサインのかわりに骸骨の絵を記していたので、「平民新聞に書いていたころ」ということだ。


平民新聞



竹下夢二:画「新家庭」11号(平民新聞明治40年1月)



竹下夢二:画「いずれ重き」4号(平民新聞明治40年1月)



竹下夢二:画「求婚広告」5号(平民新聞明治40年1月)


当時の東京美術学校は合格するとまず予備科に入り、「実習…毛筆画、木炭画、塑像(週8時間)、用器画法(週8時間)、歴史(週3時間)、外国語(英語または仏語、週2時間)、体操(週2時間)」(『東京美術学校の歴史』)を学習し、3ヶ月ののち試験を行って本科入学の合否がそこでもう一度審査される制度になっていた。


孝四郎の父・轍は和歌山県伊都郡から単身横浜に出て法律を学び裁判官になり、孝四郎が生まれた当時は、東京地方裁判所検事であった。その後、北白川家の家令となり、宮内省式部職に任じられる。自家に東久迩宮朝香宮が5年間預けられ学習院に通学。孝四郎は幼少のころ宮様と一緒に過ごしたという。内気な少年だった孝四郎は広い邸内で花や昆虫などの自然を友として遊ぶのを好んでいたという。


そんな孝四郎に父・轍は、孝四郎を医師志望者が集まっていた独逸協会中学校(現独協学園)に進学させ、卒業後に、第一高等学校理科への受験をすることになるが、失敗する。


いや、これは意図して失敗したのかもしれない。何かといえば日本刀を持ち出して「腹を切れ」とせまるというエピソードがある厳格な父に対する、ひ弱で内向的だった孝四郎の初めての反発ではなかったのではないだろうか。父親の敷延したレールから飛び出し、絵を学ぶため白馬会葵橋洋画研究所に入りたいと言い出した。幼少時代から一人で絵を描いているのが好きだったという内向的で引っ込み思案だった少年の自己主張だったのではないかと思う。