恩地孝四郎の夢二に宛てた『春の巻』読後感想の手紙は、さらに鋭く突っ込む。「私は序の次の絵を好みます。若々しい点に於て。米を研いでいる絵──古いのだと思ひましが──あれも同じように好みます。『はるさめ』『赤い日』『かくれて別れたら』『おもひこがれて』(版が悪くて──)なんどの傾向を恐れます、『光れるレール』とか『卒業したければ』とかいふ風なのは私は貴兄の絵に見たくないのです。俳画に近くはないでせうか。私は嘗て親しい友に兄の絵を詩画といふべきだと描いたことがある。又は詩のような画といふ点に於て貴兄の画の価値を

煙を吐てる山のよふに。女の絵と平行してゆくやうに書いてほしいのでした。私は『カタソデ』の次の画を好むものです。けれど何だか未醒の画のやうで物足らないのです。心の蟠りは大抵云って了った様です。」と。



竹久夢二:画、「米とぎ」(『春の巻』明治42年12月)



竹久夢二:画、「序の次の絵」(『春の巻』明治42年12月)



竹久夢二:画、「光れるレール」(『春の巻』明治42年12月)



竹久夢二:画、「卒業してりければ」(『春の巻』明治42年12月)


19才の少年が、25才のプロの挿絵画家に送る手紙としては、かなり生意気にうつるが、俳画風の画はダメ、詩のような画をヨシとする目利きぶりに、夢二も驚かされたのではないだろうか。


当時はまだ「詩画」という言葉もポピュラーな言葉とは思えないが、青木繁の「海の幸」に感動して作詩し青木の絵を掲載した蒲原有明『春鳥集』(本郷書院、明治38年7月)や、後に出会うことになる北原白秋の『邪宗門』(易風社、明治42年3月)などの詩画集に興味を持っていたのだろうか、「詩画」ということばとどこで出会ったのか、興味を惹かれる。


やはり、後に孝四郎と出会うことになる室生犀星は、「明治四十二年三月、北原白秋の処女詩集『邪宗門』が自費出版された。早速私は注文したが、金沢市では一冊きりしかこの『邪宗門』は、本屋の飾り棚にとどいていなかった。当時北原白秋は二十五歳であり私は二十一歳であった。金沢から二里ほど離れた金石町の裁判所出張所に私は勤め、月給八円を貰っていた。月給八円の男が一円五十銭の本を取り寄せて講読するのに、少しも高価だと思わないばかりか、毎日曜ごとに金沢の本屋に行っては、発行はまだかというふうに急がし、それが刊行されると威張って町じゅうを抱えて歩いたものである。誰一人としてそんあ詩集なぞに眼もくれる人はいない、彼奴は菓子折を抱えて何の気で町をうろついているのだろうと、思われたくらいである。」(室生犀星『我が愛する詩人の伝記』中央公論社、昭和33年)と、高価な『邪宗門』を手に入れていたようで、不思議な縁を感じるのである。



室生犀星『我が愛する詩人の伝記』(中央公論社、昭和33年)、カバー絵:前田青邨、題字:畦地梅太郎、装釘:著者


ともあれ、夢二『春の巻』にライフワークとなる「詩画」を見つけたのではないだろうか。そして「詩画」は恩地が生涯追い続けるライフワークとなる。




蒲原有明『春鳥集』(本郷書院、明治38年7月)




北原白秋の『邪宗門』(易風社、明治42年3月)


もう一つ、内向的で引っ込み思案の少年孝四郎が、初めての強い自己主張となる厳格な父への反抗を試み、自分の人生を決定する大きな決断をさせのは、詩画集『春の巻』が一品制作の芸術品ではなく「複製芸術」であったということに対する感動だったのではないだろうか。「複製芸術」「詩画集」というキーワードの発見の感激こそが、父・轍の「医者になって欲しい」という思惑を逸脱し、憧れの夢二の住まいを尋ね手紙を届けるという大胆な行動へと走らせる原動力だったのではないだろうかと推察する。