ではなぜ、孝四郎は唐突に美校に進もうとしたのか。後に自身の言葉で次のように言っている。

「幼少のころから画ばかりかいてゐた僕だったが決して画かきになるつもりのなかった僕が忽ち、次年春、美術学校を受ける熱意にまで到達したといふのは即ち夢二氏のあるあつたからである。但し一度も夢二氏がそれをすすめたのではない。夢二はさういふおせつかひを決してする人でなかった。……夢二君の所での半日乃至小一日といふものは、何をするといふものだはない。画を論ずるのではむろんない。……夢二氏は、多く黙ってゐる。その頃の日本によくあつたドイツの通俗芸術誌『ユーゲント』なんかをひつくりかえし乍ら、そこはかとなく座つてゐたに過ぎない。」(「夢二の芸術・その人」、『書窓』昭和18年8月)と。夢二から何かを学び取っての進路変更だったものと思われる。


こうして孝四郎の版画家、装丁家としての新たな方向がきまり、本格的な画業への第一歩を踏み出すことになった。


1911〔明治44〕年、東京美術学校予備科彫刻科塑像部に入学。
1912〔明治45〕年、東京美術学校予備科西洋学科志望に再入学。