「夢二学校」に集まった東京美術学校の生徒たちが「月映(つくはえ)」刊行

 田中恭吉、藤森静雄、孝四郎の三人が版画誌「月映」の創刊を思い立ったのは大正3年3月のこと。三人が表現手段として版画を選択した動機については、まずは夢二の本が木版画で作られていたこと、そして、夢二学校の仲間である香山小鳥が美術学校の本科への入学が出来ず、夢二の口添えで木版彫師・伊上凡骨に弟子入りしたことが影響していると思われる。さらには、「白樺」に掲載された版画作品や明治44年10月に開催された泰西版画展覧会をはじめとする展覧会等に刺戟されたものと思われる。


恩地孝四郎自身は「僕が木版をやり始めた頃は、洋画界で、ポストアンプレッショニスト輸入時代で、ヒュウーザンからひいて岸田君たちの生活社が出来たころ。大阪朝日が日曜附録に版画号を出したり今はつぶれて了った、ヒューザンのペールタンギーと称される北山氏の現代洋画が版画号を出したりした頃、その前後であったと思ふ。一方では、永瀬、長谷川(潔)両君の関係してゐた雑誌「仮面」で毎月新味ある両君作の木版表紙絵が発表されてゐたりした。(まだ「方寸」も出てゐたと思ふ)とにかく創作版画発生時代と云えるでせう。木版に眼をあけられたのは、やはりそうした時代のおかげです。その時分は南薫造氏、岡本歸一氏、清宮彬氏も盛んに木版制作を発表されてゐた。山本鼎氏の木版画会もその時分だったと思ふ。そうした刺激が私に木版を彫らせた。そこで同好三人によって私輯の『月映』が生まれる段取りになる。」(『工房雑記』興風館、昭和17年)と回想している。


特に、大正3年3月にベルリン留学から帰朝した齊藤佳三と山田耕筰の二人が、シュトルム社のヴァルデンから託された木版画と素描70展を並べ、日比谷美術館で開催されたDER STURM 木版画展には大きな刺戟を受けたものと思われる。


 夢二学校で学んだ「絵の形式による詩、内面の表出としての絵画、印刷メディアの活用」を実行に移し始めたのが詩と版画の「月映」といえるだろう。誌名「月映」の命名については、田中恭吉が書いた孝四郎宛てのハガキに「なまへをはやくとりきめて、さて安心して刀をとりたいとおもふ。『月映(つくはえ)』はどう? わたしは『月映』といふ字面のすつきりしたのがこのもしい」(大正3年3月21日)と、残されている。


また、静雄と池袋に住む恭吉から、麹町の孝四郎に宛てた別のハガキで、「……刀がとどいたのできのうは半日とぎやさんを二人でした。こんな仕事は一緒にやりたくおもう。孝ちゃんだけ遠くにいるのがはがゆい。静雄はその晩遅くまで刀をつかっていた。夜更けに私の縁の下ががさがさするので出てみると、静雄がランプをつけてこごんでいる。机に止木つくる木片をさがしていたのだった。私にしても亢奮している。どうしてもいいものが二枚出来る筈なんだから。名は『月映』にしましょうね。静雄もそう言っていたから──。」と、彫刻刀が届いたときの感激ぶりを伝え、孝四郎に誌名決定の決断を促しており、恭吉が命名したことが認められる。
 『夢二画集』の大ヒットや「白樺」の刊行で景気のよい洛陽同主人・河本亀之助がこの「月映」の話を聞いて「まあ三十円位の損ですからやりましょう」と、6ヶ月後の公刊を引き受けてくれた。


しかし、この間に3人のリーダー格の恭吉が結核に冒され帰郷し病床に臥してしまい、静雄は九州へ帰省。孝四郎は、洛陽堂との交渉から、編集、校正、書店を回っての配本、「白樺」への広告作成、経理など出版にまつわる一切の作業を一人で受け持つことになる。病状の悪化した恭吉に早く届けるため、新作の掲載をやめ予定より1ヶ月早めて大正3年9月18日に洛陽堂から、四六倍判四十八ページ、限定二百部、定価三十銭、針金綴で公刊された。



公刊「月映」VI(洛陽堂、1915年)


公刊「月映」VII(洛陽堂、1915年)


孝四郎は「月映」の刊行に携わったことで、抽象版画に目覚め、編集やデザイン、出版経営までさまざまな経験をすることになった。1冊丸ごと一人で制作する「装本」の楽しみや、夢二が手本を見せてくれた画文融合する書物を自らの手で創作することも出来、夢二の庇護から巣立つための創作版画と装本という両翼の力を着々と鍛えていた。


しかし、その結果は決して芳しいものではなく「十一部しか売れないことがあった、イプセンの詩集が初刊の時一部しか売れなかったといふことをききかぢつて、まけおしみをいつたもんだ。」(前掲書)と当時の結果を記している。