恩地孝四郎が装丁家として飛躍的に成長したのは、詩人・北原白秋との出会いであろう。孝四郎の実家が、小田原の白秋の家の近くに引っ越したことから、孝四郎と白秋は急に親しく付き合うようになった。白秋の弟・鉄雄が大正6年に出版社アルスを設立すると、白秋はそれまでは『邪宗門』(東雲堂、大正5年)など自分の著書は自分で装丁していたのを孝四郎に依頼するようになった。アルスからの初仕事『白秋小唄集』(アルス、大正6年)は、ベッチンと呼ばれる臙脂の綿ビロードに、ユリの花を図案化した模様を全面に金箔押した豪華なもの。



恩地孝四郎:装丁、北原白秋『白秋小唄集』(アルス、大正6年


その後も、アルスから刊行される本の多くは恩地に装丁を依頼し、恩地は古代ギリシャ・ローマの建築に柱頭文様として使われたアカンサスの葉飾りや葡萄蔦などを取り入れて「おんじ式」と呼ばれる独自のスタイル作り出し、その期待に応えた。



恩地孝四郎:装丁、北原白秋『白秋詩集』(アルス、大正9年



恩地孝四郎:装丁、北原白秋『白秋全集9』(アルス、昭和5年


アルス及び白秋の従弟・北原正雄が経営する玄光社から刊行された写真の技法書や音楽関連の書物は、それまでなかなか表現のチャンスがなかった、幾何学的な図案を用いた新たな様式を取り入れた表現の場を提供してくれることになる。



恩地孝四郎:装丁、「写真サロン」(玄光社、1934年)



恩地孝四郎:装丁、霜田静志「写真術初歩」(アルス、昭和13年



恩地孝四郎:装丁、小松耕輔西洋音楽の知識」(アルス、昭和4年


恩地は白秋を最も優れた自著自装の作家としてあげておりその白秋が音痴に任せた装丁には全く口出しをしなかったという。後に恩地は「アルスは僕の装本の生みの親だった」(『本の美術』)と回想しているように、白秋の信頼とバックアップを受け、奔放に想像力を発揮し、装丁家としての才能を羽ばたかせていく。