このころの様子を恩地は「幼少から画ばかりかいてゐた僕だったが決して画かきになるつもりのなかった僕が忽ち、次年春、美術学校を受ける熱意にまで到達したといふのは即ち夢二氏のあるあったからである。但し一度も夢二氏がそれをすすめたのではない。夢二はさういふおせつかひを決してする人ではなかった。……夢二君の所での半日乃至小一日といふものは、何をするといふのでもない。画を談ずるのではむろんない。蓋し、相手のない恋情を自識せずに満たしてゐたものに違ひない。夢二氏は多く黙っている。その頃の日本によくあつたドイツの通俗芸術誌「ユウゲント」なんかをひつくりかえし乍ら、そこはかとなく座つてゐたに過ぎない。」(「夢二の芸術・その人」、「書窓」昭和11年8月)と、記している。
孝四郎は夢二と急に親交を深め、夢二が主宰する「桜さく國白風の巻」に詩とコマ絵を寄稿する。孝四郎の詩は巻頭を飾り、絵は夢二と同様に一頁大で掲載されるなど特別の待遇を受けており、孝四郎の才能を高く評価する夢二の孝四郎に寄せる好意の程が伺われる。
「桜さく國白風の巻」(洛陽堂、明治44年10月)
竹久夢二:画「銀座」(「桜さく國白風の巻」洛陽堂、明治44年10月)
竹久夢二:画「BROKEN HEAD AND BROKENHEART」(「桜さく國白風の巻」洛陽堂、明治44年10月)
恩地孝四郎:詩「うすさいわひ」(「桜さく國白風の巻」洛陽堂、明治44年10月)