洛陽堂については宇野浩二が
「今の大抵の人は夢二の絵本が洛陽の紙価を高めた頃のことをほとんど知らないであろう。が、『夢二画集』──〈春の巻〉〈夏の巻〉〈秋の巻〉〈冬の巻〉──を出した洛陽堂といふ本屋の主人の河本亀之助と、私は大正七八年頃に逢ったことがある。その頃のある日、私が、河本に『どうして洛陽堂といふ名を附けたのですか、いい名ですね、」といふと、頭の綺麗に禿げた笑顔のいい河本は“ちやうど夢二の『春の巻』を出しまして、九段の上を通つてゐますと、頭から桜の花が散りかかつて来ましたので、『春の巻』が売れた嬉しさから洛陽の春といふ言葉を連想しましたので、洛陽堂と附けたのです、”といった。夢二画集を出してあつた洛陽堂が、『白樺』を出し、また『白樺叢書』として、武者小路実篤の『おめでたき人』、『世間知らず』、志賀直哉の『留女(るめ)』、その他を発行してゐたのは面白いではないか。」(『文学の三十年』中央公論社、昭和22年)と、菊富士ホテルに行った時に応接間に飾って逢った夢二の絵を見て、この説明をしている。
洛陽堂の関連で孝四郎が装丁を手がけたのは、1915年から1916年にかけて武者小路実篤や長与善郎など白樺派の作家の著書を何冊か装本したが、それらの多くは主に題字とカットだけのごく簡単なものだった。
恩地孝四郎:装丁、西川光二郎『悪人研究』(洛陽堂、明治44年7月)
初めての装丁について後に孝四郎は
「(逸題)逸題という本ではない。僕の一番初めに装画した本のことを書くつもりを、その本を失って題を逸してしまったのである。何でも教化遷善の事実という文字がふと浮かんできた。そんな題であったかも知れない。国家社会主義者であった西川光二郎氏が転身してたしか義勇教誨師といったようなことをやり初めの頃、その経験をかいた本。昔なつかしの洛陽堂刊。四六判五六分厚さの紙装のカバアに面、鬼のようなのをいろいろかいたのである僕、美術学校入りたて位の時か、夢二全盛時代、夢二君がやってみないかと云われて初めて公刊本の表紙というものをかいたのである。明治末であったろう。」(「書窓」39、アオイ書房、昭和14年)と、回想している。
その後、なくしてしまった『悪人研究』に出会うことげできたようで
「小生の最初の装本である西川光二郎の『悪人研究』を忘れていた程のものだが、尋ねられて思い出して答えておいたところそれを入手して投与されたので自分の所にもなくなっていたものに久しぶりで対面した。古書通信の八木隆一郎氏の好意であった。竹久夢二に奨められて、夢二本の出版社であった洛陽堂が、試みてくれたもので、明治四十四年刊である。僕の生れ年の七月であったのも奇遇で、二十歳の勘定になる。字は下手な漢字で中央に黒角の中に青赤二色の脈絡をかいた心臓を描きこみ、下に能面の悪慰や武悪やなど三つ並べた稚拙なもの、明治末情緒は成程出ている。爾来本好きから続いた装本は本業となり、おかげで三十年生計をどうやらたて、おかげで画のほうは売らずに勝手な画がかける幸を得た次第である。但し良装は得がたく、悪業を重ねて慚愧にたえない。」(「本の手帖」)と、記している。
夢二主宰の「桜さく国 紅桃の巻」(洛陽堂、明治45年3月)に田中恭吉が詩を寄稿し加わってくる。孝四郎の無二の親友となり「月映(つくはえ)」同人となる恭吉との出会いは、この「桜さく国」であった。恩地は、父の故郷和歌山の同郷人である恭吉に親近感を覚え早速手紙を書いた。恭吉からもすぐに返事が来て、二人の交友がはじまる。