1920年、ブルリュークとパリモフの来日、1922年、ブブノワの来日などによりロシア構成主義が伝えられ、1923年にはベルリン留学でダダやバウハウスの影響受けた村山知義が帰国し、日本にも前衛的な美術運動が展開された。1920年、普門暁が率いる「未来派美術協会」が設立され、1922年、神原泰の「アクション」が、1923年には村山知義が中心になって「マヴォ」が結成された。これらの運動が孝四郎の装丁にも大きな変化をもたらす。


恩地は村山知義の著書『構成派研究』(中央美術社、1926〈大正15〉年2月)などを読んでいたと思われ、
 「機械的要素の芸術への導入の次には芸術の機械化がくるのは当然である。芸術品の個々の手工芸的制作は中世期的であり、ブルジョア的であり、不必要なぜいたくであり、大衆の協同と平等の社会には全くふさわしくないものであるとされる。
 この意向は産業主義の大量生産と合致する。ロマン・ロランは、その民衆芸術運動において、壁画でない絵は絵でない、という意味のことをいっている。これは面積における大量生産にほかならない。面積の次には数における大量生産が来る。すると芸術の機械化が避くべからざることとなってくる。
 この要求の結果として最近、印刷、写真、フィルムの三つが最も新しい芸術家たちの注目を惹き出している。
 ロシアにおいては革命後、宣伝に教化のために純粋の絵画よりも大量の複製の方を要求したし、できるだけ平易明瞭にしてしかも印象の深い印刷物を要求したので、印刷術(版画も含めて)は異常な発達をとげた。オランダ、ドイツあたりの構成主義者も印刷術に対して非常な興味を示しはじめた。


 こうして印刷術は、構成主義者によって一つの新しい生命を与えられたといってもいい。文章の単なる謄写、絵画の単なる複製(それも原作よりもまるで別物のよいうに劣っている)でしかなかった印刷術が、いまや独自無比の価値をもつようになった。活字の大きさ、位置、行の置き方等が非常に重要なものとなった。
 写真術はそれだけでも、すでに芸術の機械化に大きな効果を持っているが、印刷術と協力して絶大な威力を発揮している。そしてフィルムは、明日に無限の約束をしている。」などの言葉に、その後の装本活動は強い影響を受けていたものと思われる。


とくに「印刷の本質と目的とは、行のあらゆる方面や(すなわちただ水平な組み方ばかりでなくなる)すべてのタイプや、文字の順序や、幾何学的な形や、色などの無拘束な使用を規定するにある。文章の材料の弾性と変化性と新鮮さとをもって、一つの新しい印刷術的な言葉が創造されなければならない。その言葉の要求は、ただ表出の規則正しさとその効果とだけに屈従すべきである。」という言葉にはさらに大きな刺激を受けたのではないだろうか。



村山知義『構成派研究』(中央美術社、1926年)


村山知義は、これらの理論の実践として、タイポグラフィーやリノカット、写真を駆使し、大胆なレイアウトを実現させた詩集・荻原恭次郎『死刑宣告』(長隆舎書店、1926年)を発表した。恩地は「本文のなかにすべて図案的な配慮による装備を施し、多数の新傾向絵画その多くは版画を挿入している。現在まで、あれほど本全体を図案化したものはほかにはないだろう。」(『本の美術』)と、絶賛しており、『詩集 死刑宣告』が恩地の創作活動に与えた影響の大きさをうかがうことができる。




荻原恭次郎『死刑宣告』(長隆舎書店、1926年)




荻原恭次郎『死刑宣告』(長隆舎書店、1926年)


孝四郎は、それまでは抽象的な図像を用いた装丁はなかなか発表の場がなかったが、1923(大正12)年9月に発生した関東大震災を境にして、それ以降は、前衛美術の影響を受容した作品を次々に発表していく。



恩地孝四郎:装丁、ポール・ゴーガン『ノアノア』(アルス、大正15年)


恩地孝四郎:装丁、村山槐多『槐多の歌へる』(アルス、昭和2年



恩地孝四郎:装丁、有川治助『ヘンリ・フォード』(改造社昭和2年



恩地孝四郎:装丁、小松耕輔西洋音楽の知識』(アルス、昭和4年



恩地孝四郎:装丁、大木篤夫『危険信号』(アルス、昭和5年



恩地孝四郎:装丁、山内賢次『グレート・ラブ』(アルス、昭和5年



恩地孝四郎:装丁、藤森成吉『蜂起』(日本評論社昭和5年



恩地孝四郎:装丁、甲賀三郎『犯罪・探偵・人生』(新小説社、昭和9年


村山知義らの活発な活動により、前衛美術が市民権を得てきたのだろう、孝四郎は、突然訪れた前衛美術運動のブームを振り返り
「所謂オンチ式という装案画、まやかしのルネッサンス、またはゴシック唐草、そういったものが漸くすたれてこの頃はわりに自分勝手なものが通用できるようになりました。これというのも世間が進歩して、西洋で構成派とか表現派とかが生まれ、物まね日本がまねして呉れてきたおかげだと有り難く思ってゐます」(『書物と装丁』創刊号、1930年)と、前衛美術を「物まね日本」という、自らの画業をふくめたブームを批判するかのような皮肉な文章を残している。