公刊「月映」は、限定200部で刊行されたが「十一部しか売れないことがあった」というように、出版物としては失敗に終わってしまった。が、そんな数少ない購読者の一人に萩原朔太郎がいた。朔太郎は、詩の仲間でもある孝四郎に、出版予定している処女詩集の挿絵画家の相談を持ちかけ、資質の似ている恭吉を紹介される。「月映」を通して恭吉の作品に「驚異と嘆美の眼」を見張っていたという朔太郎は、恩地を通じて早速依頼する。


恭吉は快諾するが、刊行を待たずに夭逝。孝四郎は恭吉の遺志を継いで編集、装丁、挿絵を引き受け、恭吉の遺作11点に、孝四郎の「抒情よろこびあふれ」など3点を巻末に載せ、およそ2年の歳月を経て刊行にたどり着く。



恩地孝四郎:装丁、萩原朔太郎『月に吠える』(感情詩社、大正6年


孝四郎の詩を通じての友人でもある、萩原朔太郎室生犀星の提案で詩誌「感情」が大正5年6月に創刊され、孝四郎も2号に「善き父上に送る」と題した木版画を寄稿して、編集制作にかかわるようになる。4号からは表紙デザインでも加わるようになり、版画の発表も行う。



恩地孝四郎:画、「善き父上に送る」(「感情」2号、大正5年)


恩地孝四郎が「感情」の装丁や編集に加わった「第五号あたりから際立ってたくみな編集になった。主として恩地孝四郎が表紙版画を担当したことも雑誌を新鮮にした。」(伊藤信吉「『感情』グループについて」昭和50年)と、恩地の参加は高く評価されている。「夢二学校」や「月映」での献身的な編集経験が大きな成果となって実を結んだものだ。



恩地孝四郎:画、「ALL:INNEN」(「感情」4号、大正5年)

表紙画を担当するようになり、新たな表現の探求を試みる。
「感情」20号は「恩地孝四郎抒情画集」が組まれた。



恩地孝四郎抒情画集」(「感情」20号、大正7年



恩地孝四郎抒情画集」(「感情」20号4-5p、大正7年



恩地孝四郎抒情画集」(「感情」20号8-9p、大正7年


恩地孝四郎抒情画集」(「感情」20号11-12p、大正7年