2010-05-05から1日間の記事一覧

想定外の評価?

そういう孝四郎が雑誌・公刊「月映」第V号(洛陽堂、1915〈大正5〉年3月)に発表した、日本近代美術史上最初の抽象作品と言われている「あかるいとき」にしても、「美術新報」第12巻第10号(東西美術社、大正2年8月)に掲載されたブールリツク(ブルリューク…

1920年、ブルリュークとパリモフの来日、1922年、ブブノワの来日などによりロシア構成主義が伝えられ、1923年にはベルリン留学でダダやバウハウスの影響受けた村山知義が帰国し、日本にも前衛的な美術運動が展開された。1920年、普門暁が率いる「未来派美術協会」が設立され、1922年、神原泰の「アクション」が、1923年には村山知義が中心になって「マヴォ」が結成された。これらの運動が孝四郎の装丁にも大きな変化をもたらす。

恩地は村山知義の著書『構成派研究』(中央美術社、1926〈大正15〉年2月)などを読んでいたと思われ、 「機械的要素の芸術への導入の次には芸術の機械化がくるのは当然である。芸術品の個々の手工芸的制作は中世期的であり、ブルジョア的であり、不必要なぜ…