孝四郎は「一枚の絵を所蔵することよりも一夕のシネマに十分充実した贅沢を味わふ民衆のいかに多数であるか。……画家の仕事が文士のそれのやうに一枚の原画をかきそれを、印刷複製して、多数にして社会に提供する様な方式が成立するといいのだが……工芸と純美術この別があつてはならない。否、ある筈がない。美術即実用」(「アトリエ」昭和4年)と、夢二に学んだ複製芸術論を進化させ、「僕の一番興味があるのは、市場でゴロゴロころがされ、足蹴りにさえされる、公刊本の装本だ。」(「装本雑俎」『書窓』1935年)という独自の装本理論を導


さらに「すぐれた芸術は万人に通ずる根源の生命を保持する。人々はより高き、より深き、より正しき、より美しき精神を以てその未来への生活を保たなければならない。芸術によつて生きる世界こそ人類が把握しうる幸福な世界がある。……万人の芸術を求めよ。」(『工房雑記』興風館、昭和17年)と書き、武者小路実篤に感化され、人類の幸福と一致した生き方、生きた印としての芸術を願うという芸術による幸福論を提唱し、限定本や私家版といわれる高価で少部数刊行の本ではなく、量産される本のデザインを指向した。


そんな恩地が求める究極の装本を実現する事が出来る時代がついにやってきた。吉田絃二郎『運命の秋』(改造社大正14年)、正宗白鳥『安土の春』(改造社、大正15年)、真山青果江戸城総攻め』(春秋社、大正15年)の「三つとも大正末だが、どうしたことかこの頃に木版手刷が多い。」と、恩地自身もこの手摺り木版画の装丁ブームが、なぜ突然やってきたのかは、理解できないままに受け入れていた。『運命の秋』について「鳥の子に木版手刷の黒と灰茶、黒の上光沢刷だが、バレン刷のため筋がたつている。」と、何部くらい発行したのかはわからないが、手刷木版での装本であると記している。



吉田絃二郎『運命の秋』(改造社大正14年



正宗白鳥『安土の春』(改造社、大正15年)



真山青果江戸城総攻め』(春秋社、大正15年)


その他、同時期に刊行された正宗白鳥『歓迎されぬ男』(改造社、大正15年)、吉田絃二郎『芭蕉』(改造社、大正15年)、吉田絃二郎『父』(改造社、大正15年)、井上康文『手』(素人社、昭和3年)など、今ではとても量産される本としては製作不可能とおもわれる、手間と費用がかかり豪華ではあるが複製芸術品としての書物を世に送り出した。



正宗白鳥『歓迎されぬ男』(改造社、大正15年)



吉田絃二郎『芭蕉』(改造社、大正15年)



井上康文『手』(素人社、昭和3年)



創作版画家として、装本家としてすべての思考と技術を投入し完成させたのが、抽象的な図案を配し手摺木版画を使った装本。これこそが恩地が求めていた「万人の芸術」を実現させる装本だったのではないだろうか。