表紙のデザインについて1号から3号まで表紙意匠を担当した朔太郎は「この雑誌の装幀は、表紙の意匠から釘装まで、僕がすっかり自分で考へ、ただ表紙に入れる絵だけを恩地孝四郎君に描いてもらった。」(「詩壇に出た頃」)と自分が装幀を担当していたことを主張し、さらに「恩地君の表紙と挿図とは、当時に於て全く鮮新のものであり、雑誌表紙の一新機軸を啓いたものと定評された。」(「感情」を出した頃」)と、恩地に表紙を任せるようになってからはさらに評価が高かったと述べている。
恩地孝四郎:装画、「感情」10、大正6年5月、
この年2月に萩原朔太郎『月に吠える』(感情詩社)の構成を考え、田中恭吉の作品の他に孝四郎自身の作品挿絵4点を寄稿。
恩地孝四郎:装画、「感情」11、大正6年6月
恩地孝四郎:装画、「感情」15、大正6年11月
恩地孝四郎:版画、「感情」21号、大正7年7月
恩地は、このチャンスに新たな表現を追いかけ、未来派のマルクや構成主義のカンディンスキーなどを研究し、その成果を「感情」に次々と発表していった。
マルク「最後の試み」(〈戦場からのスケッチブック〉1915年3月から6月にかけて描かれた36点のデッサン)
マルク「青い鹿」1913年、1912年にパリで出会ったロベール・ドローネ「オルフィスム」の影響をうけ、色彩による分割を試みたという。