洛陽堂・河本亀之助について『画文共鳴』(岩波書店、2008年)の著者・木股知史さんから新たな情報を教えていただきましたので、ご紹介します。


出典について「河本亀之助の事項については『河本亀之助追悼録』(1921年1月、河本テル発行)所収の、関寛之“河本亀之助氏の生涯”、高島平三郎“追想録”を参照した。」(木俣知史「スケッチという概念をめぐって─画文をつなぐもの」甲南大学紀要、2009-03-25)との注があり、
「河本亀之助は、一八七六年、広島県沼隈郡今津村(現福山市)に生まれた。教育者、心理学者として活躍した高島平三郎は、沼隈郡神村で小学校の教員をしているときに二歳年下の河本としりあった。高島は、東京に戻り学習院に勤めたが、同僚の搾乳業を手伝うことを勧め、上京を促した。河本は重労働に耐えたが、将来の展望のないことを高島に訴えた。高島の知人である川崎又次郎が東京で印刷所をおこすことになり、高島は、働き手として河本を推薦した。印刷所は発展し、国光社と名を改め、河本はその中心となって働いた。『月刊スケッチ』の印刷所が国光社であり、その縁で河本亀之助の名が『月刊スケッチ』の印刷人として掲げられたのである。
その後、金尾文淵堂の不調が原因となって、河本は国光社を辞して、自ら出版社を興すことになり、洛陽堂が生まれた。」(木俣知史「スケッチという概念をめぐって─画文をつなぐもの」)と、記されており、更に詳しい亀之助像を知ることができた。