洛陽堂・河本亀之助について調べようとしたが、資料が少ないようで、なかなか全容がわからない。そんな中、小田光雄「洛陽堂河本亀之助」(「日本古書通信」第967号、日本古書通信社、2010年2月号)を見つけた。小田氏も「著名な出版社であるにもかかわらず……出版史にもほとんど姿を見せていない。」として、「文学者の回想にたよることとなる」と前置きをしながら宇野浩二『文学の青春期』(乾元社、 昭28年)の「洛陽堂と東雲堂」を紹介している。私も早速購入して読んでみた。


小田氏の要約の方が簡潔にまとめられているので、そちらを紹介すると「河本亀之助は明治末期に築地印刷所の重役であった。ところが金尾文淵堂の金尾種次郎を信用しすぎ、大きな損害をこうむったために、印刷所を辞め、出版社の洛陽堂を始めることになった。その相談相手が出版に関しては先輩の金尾本人で、彼は恩返しの意味もあり、河本のために様々な出版の知恵を授けたというが、金尾は出版が道楽だと称された人物であるから、その後の洛陽堂の行方が想像できるような気がする。そして処女出版として明治四十二年十二月に『夢二画集』の第一巻『春の巻』を刊行した。竹久夢二にとってもこれは最初の画集で、洛陽堂にしても夢二からの持ち込み企画だったのだが、大きな反響を呼び、予想外の売れ行きを示した。」(前掲「洛陽堂河本亀之助」)と、洛陽堂設立にまつわる話が少し見えてきた。


さらに小田氏は小川菊松『出版興亡五十年』(誠文堂新光社、昭和28年)に書かれた文章を紹介している。「河本は築地の教科書印刷所の国光社の元支配人で、彼が亡くなった後、実弟の河本俊三が古本屋を営みながら、洛陽堂を継続させたと伝えている。これを読んで納得いく思いがした。『泰西の絵画及彫刻』の奥付の印刷者の名前が河本俊三で、印刷は洛陽堂印刷所となっていた。つまり洛陽堂は兄が出版、弟が印刷と分業して始められたのではないだろうか。しかし、洛陽堂の危機と兄の死を迎え、印刷所は人手にわたり、弟は古本屋へと転業したのではないだろうか。」と、推察している。