専太郎に襲いかかった苦難の時代

五・一五事件二・二六事件と、世相は急テンポで変わりはじめた。それなのに私は、川口の『蛇姫様』のさし絵を受け持って、浮世絵風の華麗な絵を描いた。世の中がどうなろうと娯楽は娯楽だと、考えたような気もするが、はっきりした意思を持たない私だから、あてにはならない。『蛇姫様』のさし絵は好評だった。しだいに華麗なものの消されてゆく世情の中で、それに逆行するようなきれいさが、受けたのだとおもう。だが、やがて、“映画は国策にそわざるべからず”という、映画法の公布される国情の中だから、当局の一部には、華麗な画風を否定する動きもあったのだろう。」(岩田専太郎『わが半生の記』家の光協会、昭和47年)と、日に日に戦争へ向けて時局が悪化する中、専太郎のような画風は華麗さゆえに排除される情勢にあった。間もなく40歳を迎え、技術的にも肉体的にも最も油ののった時期に絵を描くことが出来なくなってしまう。


昭和12年1月号から6年間表紙絵を描き続けてきたが、昭和17年秋、『オール読物』編集長の香西昇氏が訪ねてきた。「……玄関で、彼の気の毒そうな顔色をみただけで、何もきかないうちに、その用向きがわかった。まっ正直な香西君なのである。『オール読物』の表紙の仕事は、私が、かなり力をいれて描いていたものだった。が、それを、他の人に替えるというのが、訪問の目的だった。



岩田専太郎:挿画、「オール読物」(昭和15年7月号)表紙


……実はさし絵の仕事を、よそうかと思ったこともあった。……『蛇姫様』その他、華麗な絵を描いて、ものの役に立たない絵かきのごとく扱われた口惜しさに、無理とはしりつつも兵隊の絵を描いて、戦争末期の昭和二十年には、陸軍報道部の命令で、『神風特攻隊吉出発』の絵を描いている。平然として死地におもむく、青年たちの群像をである。戦争することの是非はともかく、あの青年たちの姿には胸を打たれずにはいられなかった。それが、戦争が終ると、またもとのような華麗な絵を描け、との注文である。どうすればいいのだ! とおもった。」(『わが半生の記』)



岩田専太郎:画、「特攻隊内地基地を発信す(二)」(東京国立近代美術館蔵、昭和20年)


「昭和20年代の初期は、時代物は封建思想を助長するものとして米軍総司令部の禁止命令によって逼塞(ひっそく)させられていたが、それも長いことではなく、間もなく再び時代物〈小説も映画なども〉は復活した。そして二十年代末期から三十年代初めにかけては『剣豪小説』がとくに一般に受け、剣豪ものブームをひき起したことは、まだ記憶に新しいところである。……はげしい動きの一瞬が、群像を描かずして群像の動きを躍動させているところなど、僅かな刀の切先だけを描いて、激動する場面の緊張感と空気の動き、風を切る音まで描き出している。こういう見えないものまでを表現するのは、俳句の『ひびき』『におい』『かるみ』『わび』の文字面以外の表現力に通じる浮世絵のお色気、いきといった江戸の伝統である。……こういう心理描写、雰囲気の表現といった伝統の分野では、彼は広汎な場面や人間社会の多様性に作家の側から対決を迫られてくるだけに、きわめて新しい分野を無限に開拓していった。……川口松太郎の『獅子丸一平』…では、ごく自然なまともな人間を描いていて、しかももそれがどこまでも動いてゆく、そういう雰囲気を発散している。少年も女も侍も、後ろ姿、群像、僧衣の男、そういう人間が、何れも飛び出して行ったり、強烈に私達の目を撃つ。…侍の目などそれははげしい悪意がつたわってくる。」(『岩田専太郎さしえ画集』)



岩田専太郎:画、川口松太郎「獅子丸一平」(毎日新聞夕刊、昭和29年8月〜31年9月)



岩田専太郎:画、川口松太郎「獅子丸一平」(毎日新聞夕刊、昭和29年8月〜31年9月)



岩田専太郎:画、川口松太郎「獅子丸一平」(毎日新聞夕刊、昭和29年8月〜31年9月)



岩田専太郎:画、川口松太郎「獅子丸一平」(毎日新聞夕刊、昭和29年8月〜31年9月)



岩田専太郎:画、川口松太郎「獅子丸一平」(毎日新聞夕刊、昭和29年8月〜31年9月)