『変手古倫物語(へんてこりんものがたり)』

闘病生活は、昼間は1時間ごとの検温、血圧検査、点滴、3度の食事などに追われて何もできず、21時に消灯してから朝6時の点灯まで9時間も真っ暗の中で、夜が長く退屈だ。昼間の暇な時間に田代光『変手古倫物語』(美術倶楽部、昭和56年)を読んだ。入院中なのでスキャンニングが出来ず、カメラも持ってこなかったので、写真や挿絵を掲載することが出来ないのが残念だ。


挿絵画家・田代光は19歳(1922年)のときに『キング』に連載された野村愛正「光を行く」で初めて連載小説の挿絵を担当、翌年、久米正雄「青空に微笑む」(『少年倶楽部』1923年)と、百万部突破の『キング』などから仕事が来るようになり、大いに夢を膨らませていた。が、思わぬ壁が立ちはだかった


「僕と前後して挿絵界へ登場して来た人達に志村立美、小林秀恒、富永謙太郎、吉田貫三郎などがいる。……これらの新人群の中で、小林君のデビューが一番華々しく水際立っていた。僕らはアッという間に引き離されてしまった。……どうにか出かかっていた僕は小林君などのあおりで、出もしないうちにスランプに落ち込んでしまった。そればかりではない原因もあったのだが、僕自身の性格が挿絵画家に適さないことを痛感した。やはり孤独に自分の道をゆくには、上野の森へ帰るより仕方がない。どうせ駄目なものなら、自分の好きな世界で骨を削ろう。


 しかし帰りかけてみて、胸打つものがあった。あいそをつかして出て行こうとした挿絵界も上野の森の画壇も同じことであった。同じことなら民衆の仕事の中へ帰ろう。改めてそう決意した。


 そして「春雷」への登場となったのであるが、その前半は胸突き八丁で実につらかった。だいたい派手さのない画風だったので小林君の派手さに押しまくられたのだが、僕なりに派手にすべく努力したのであった。精一杯に張ったつもりが雑誌の上に再現されてくると、しなびて見えるのである。"今月こそは"という気持でぶつかっていった。毎月苦痛に耐えつつ前進する気持だった。


「春雷」を得た時は一切の努力が報いられたとおもった」(前掲書『変手古倫物語』)。と、デビューして間もないころは決して華やかなものではなかった。


田代光に興味を持ったのは、春陽会夏季講習に通い石井鶴三や木村荘八らの指導を受けたことだ。