【101冊の挿絵のある本(78)…斎藤佳三:装画、昭和初期のモダンな楽譜の表紙29点を紹介します。】
私が斎藤佳三に興味をもつきっかけは、この見事なアールヌーボ〜調の装幀を古書市で見つけたことでした。斎藤佳三:装丁『女詩人サッフォ』(大14年)。
斎藤佳三(かぞう・本名佳蔵)は、明治20年(1887)に秋田県由利郡矢島町館町で生まれた。図案家、作曲家、舞台美術家、演出家、あるいはドイツ表現主義の紹介者として知られている。
秋田市第一中学校を卒業後、音楽家を志して上京、東京音楽学校師範科に入学。明治42年(1909)23歳のとき東京音楽学校師範科を中退したのち、舞台芸術に触れ東京美術学校図案科へと再入学、在学中には生涯の友となる音楽家山田耕筰を始め、 劇作家小山内薫、詩人川路柳虹、演出家土方与志、詩人北原白秋、岡田三郎助らと、音楽と美術の境界を超えた西条八十などと親交を深める。
1913年、25歳のとき小歌曲「樹立」などを発表し、美術学校卒業後、山田耕筰とともに渡欧しベルリン王立工芸院で構成美学を専攻に訪れた。 ベルリンを拠点に同時代の西欧芸術を直接受容、西欧の表現主義と、 ジャンルを超えた総合的な芸術表現への関心の高まりという2つの重要な動向を吸収した。
帰国後の最初の仕事として斎藤は、「リズム模様」と題する作品展を開き、その後も活発な活動を展開して、日本で初めて「リズム模様」という創作デザインなど新作を次々に発表し、日本ではじめて「商業デザイン」「工業意匠」の言葉を使った多面的な活動、 帝展へのモデル・ルームの出品等は、彼自身が触発された海外の動向を、 いかに日本人の生活の中に取り込んでゆくかという試みの表れでもあった。
1923年には美校、及び政府の嘱託として教育、 著作権法の調査のために再渡独している。 東京美術学校の講師として15年間、意匠学、服装学講座を担当したのち、松竹キネマ美術部長に就任する。
昭和5年中華民国に招かれ、国立美術院図案化主任教授として3年間つとめ、昭和9年に東京図案専門学院院長に就任し、太平洋戦争が近づいた十四年には、厚生、商工両省の依頼で〈国民服〉を考案し、広く着用された。翌十五年には東京服装美術学校の校長になるとともに、皇后の宮中服も考案。
昭和30年東京世田谷区上北沢の自宅で亡くなる。(享年69歳)。