『名作挿画全集』第3巻付録「さしゑ」第3巻の巻頭に記載されている鏑木清方「月岡芳年先生を憶ふ」を転載させてもらおう。近代挿絵揺籃期ともいうべき明治期の挿絵の世界を垣間見ることができる貴重な資料といえる。


「大分昔のことなので、すべてが朧げになってしまったが、出来るだけ正しい記憶を辿って心覚えを綴って見よう。
 月岡芳年が挿畫(さしえ)をはじめたのは明治初年のことで、たしか自由の燈(ともしび)と云ふ新聞にかいたのがそれである。明治十九年頃から廿三、四年頃のやまと新聞は、一日に三面の挿畫を掲載してゐたが、その各々がいまの挿画の六倍位だった。


時には新聞全體を挿畫でつぶしたこともあつて、挿画を重んじた點から云へば當時が全盛で、現在などは及びもつかない。云はゞ新聞が挿畫のためにあるのではないかと思はれる位であった。



月岡芳年:画、みやこのはな掲載挿画


 この挿畫界の第一人者が芳年で、この人の助手に水野年方がゐたが、當時未だ廿歳(はたち)そこそこの青年だった。この年方がやまと新聞の挿畫三枚の中、一枚だけを受け持ってゐたが、次第に若くて美しい年方の挿畫の方が讀者に受けて來て、しまいには芳年が一枚、年方が二枚と云ふ風に反對になつてしまつた。



水野年方:画、

後に芳年が病氣になり、繪をかゝなくなると年方が三枚全部をかいたが、それが明治廿八、九年頃まで續いた。私が年方先生に入門したのは、先生の挿畫の最も油の乗ってゐた明治廿四年だった。


 その頃はいまの樣に繪の展覧會も盛ではなかったが、稀に開かれる展覧會にも挿畫畫家には出品しない人も多いが……。


 明治廿四、五年頃から新聞のみではなく、雑誌や單行本の刊行が盛んになり、挿畫畫家はその仕事だけでも徹夜しなければ間に合わぬ程いそがしく、今の樣に入念に繪をかいて展覧會に出品する時間はとても得られない樣な事情にあったのである。


その頃の挿畫は新聞の他に博文館、金港堂、春陽堂の三つの出版所から出る雑誌に一番よいものが掲載された。春陽堂は新小説、金港堂はみやこのはな、博文館は太陽、文芸倶楽部、その他少年世界、少女世界、幼年世界等の少年ものを出してゐた。」(つづく)