名取春仙:挿絵、森田草平「煤煙」は明治42年、東京朝日新聞に127回にわたって連載され大変な評判を呼び、新聞小説挿絵に新しいスタイルを導入したと、高い評価を得て、春仙挿絵の代表作といわれている。



東京朝日新聞、朝日文芸欄に連載された森田草平「煤煙」第1回



名取春仙:挿絵、森田草平「煤煙」(東京朝日新聞明治42年)「犬の耳を切っては樽へ入れて鹽[*塩]漬けにしているのを見た。それだけは明々と覚えているが、如何してこんな夢を見たのか解らない。」というシーンだが、当時の新聞での印刷技術では薄い色の再現が困難だったため、夢のシーンを濃淡を使わずにわざと筆先を割って画像を二重三重に描いている。



名取春仙:挿絵、森田草平「煤煙」(東京朝日新聞明治42年)新聞掲載状態


そんな「煤煙」の挿絵について木村荘八は、「『煤煙』が新聞に連載された時には、その毎日の文につれて名取春仙の今で言えばコマ絵風の挿絵が出た、実にこれが新聞紙上に毎日連載されて、相当広く人の目に触れていた。後年挿絵の歴史風な書きものなど手がけるようになってから再検討すると、この森田さんの『煤煙』に添えて画かれた春仙氏の挿絵は、文献からいってもまた仕事から見ても逸すべからざる史乗のものであるということを知った。」(「煤煙の作者と中学時代」東京新聞所載、昭和25年2月2日)と、高く評価している。



名取春仙:挿絵、森田草平「煤煙」(東京朝日新聞明治42年



名取春仙:挿絵、森田草平「煤煙」(東京朝日新聞明治42年



名取春仙:挿絵、森田草平「煤煙」(東京朝日新聞明治42年


 紅野敏郎は具体的にここの挿絵をとりあげ「名取春仙、この人の名を私たちが強く意識し始めたのは、朝日新聞紙上に夏目漱石が連載した多くの小説の挿絵やカット、あるいは島崎藤村の『春』や森田草平の『煤煙』などの挿絵、またそれらのうちのいくつかを集めて刊行した『デモ画集』(明治四十三年八月 如山堂書店刊)などの存在を通してである。
 とくに朝日新聞を繰る時間が惜しい場合は、『デモ画集』を眺めていると、文中の主要な絵と、それに関する作者の文とがうまく配置されていて、小説全体と挿絵のただならぬ関係の深さにあらためて驚かされる。



名取春仙:挿絵、森田草平「煤煙」(東京朝日新聞明治42年
 この挿絵は「…死なゝければ接近することは出来ない。朋子は自分の方へ来て呉れと言った──来てくれとは、死んで呉れと云ふ外に意味はない。
 夜は更けた。室内は火気にに蒸されて春の様である。何時の間にやら戸の外は風が出て、家をも木をも揺るがすばかりに、どうつと吹き、又どうつと吹く。どうつと吹く木枯しの中を白衣を着た人夫に舁(*担)がれて、しづしづと柩が行く。音もなく、聲も立てず舁いで行く。これはわれ自らの柩ではないか。目を開くと火桶の炭は白う成つて、身軆は水から上がつた様に勞れて居た。」というシーンを描いたもの。



名取春仙:挿絵、森田草平「煤煙」(東京朝日新聞明治42年
春仙は入社直後に神田明神下から東京府荏原郡海晏寺前に転居しているが、新聞記者として常に報道スケッチブックを懐にいれ走り回っていた春仙にとっては、ニコライ堂はいつもの行動半以内なので、直接スケッチして描いたものと思われる。


 ……これらはいずれも作品展開上の重要なところだが、名取春仙の挿絵があることで、いっそう強くその場面の効果がにじみ出てくる。
 森田草平の『煤煙』は、明治四十二年の朝日新聞に連載されたが、これにしても同様である。主人公と朋子とが『お茶の水橋の袂へ出た時、朋子は急に思ひ附いたやうに“ニコライへ行って見ませうか”と言い出した』というシーンをとりあげ、あの著名なニコライ堂の風景を鮮やかに描き出す。」と、新聞小説と挿絵の深い繋がりについて論究している。


名取春仙『デモ画集』(如山堂書店、明治43年)の序文に、「煤煙」の作者・森田草平が挿絵について寄稿している。
「予が始めて朝日新聞の紙上に小説『煤烟』を公にした当時、此畫集の著者名取春僊氏は連日此小説のために挿畫を揮毫された縁故がある。繪のことは解らぬとは云え、自分の書いた小説の挿畫だから、これは特別の興味を以て日々の誌上に接した。
 それ以来春僊氏の挿畫は予のために忘れられないものゝ一つと成った。勿論作者と挿畫との関係は、脚本の作者と俳優の舞臺上の表現といふ程でもないが畫家が表はそうとする情調の幾分は作家も手傳って居るのだから、時としては、勝手がましい言分ではあるが、自分が畫いた様にも思はれた。


 其後新聞社で始めて名取氏に逢った。いろいろ話が有った中に、一體小説の挿畫と云ふものは如何かすると、読者のイリュージョンを扶けるよりも、却てそれを壊すやうな結果に成り易い。それだから成るべく簡単に一章の感じ、一句の印象を捉へて描くといった様にしてゐると云われた。成程畫家として用意のある言葉だと思った。


 氏が始めて『朝日』の小説の挿畫に筆を執られたのは、島崎藤村氏の『春』であったかと思ふ。そして今の様な一種の風格のある挿畫を創めたのも氏であったらしい。實際氏のあゝした挿畫には他人の模し難い妙味があつて、其意匠も紙に莅み筆に随って湧く様である。
『煤烟』の挿画については、中に一つ二つこれは如何かなと思つたものも無いではなかったが、大抵は滿足した。殊に氷獄の裡に閉ぢられて、髪の毛迄氷ついた少女の姿が巻紙の中からあらはれた繪なぞはその時畫家の町所を知ってゐたら即日手紙で謝したいと思つた位であった。



名取春仙:挿絵、森田草平「煤煙」(東京朝日新聞明治42年)「私は興味を持っています。自分で造り上げた氷獄の裡に、前も後ろも、左も右も雪々、氷塊氷雨の音絶えず、その中で遊ぶのです──堪へられるだけ堪へて、凍死するのは面白い様です。



名取春仙:挿絵、森田草平「煤煙」(東京朝日新聞明治42年)「家では隈江と姨様と二人して、着物の綿入れを入れて居た。姨さんは肩に真綿をくつつけながらも出て来て、茶箪笥の上から手紙をとって渡した。」



名取春仙:挿絵、森田草平「煤煙」(東京朝日新聞明治42年)「かうして眼を睜(*見開)いたまゝ、自分が手を下した女の死骸を前にして、突立つて居る自分の姿が明々と眼の前に浮かんできた。」


 それに次いでは逍三の靈、牛若長良川の景、花魁、御詠歌、猿芝居、柩の夢、着物の綿を入れる女、女の屍の前に立てる男の頭髪、大宮の町の朝など(以下略)明治四十三年五月五日 森田草平
 終りに私は當時の印象を辿って、物故者や忘れられた業蹟人名を挙げたかったが、小説挿画以外にも亘るし長くなるので、別の機會に期して割愛した。〉」(『名作挿画全集』第三巻付録「さしゑ」第三号)より」