『戸張孤雁集』(碌山美術館、昭和61年)が届いた。詳細な「戸張孤雁年譜」が記載されているのが嬉しい。それよりも、石井鶴三「戸張孤雁氏を憶ふ」という追悼文が記載されており、そのなかに挿絵画家としての戸張孤雁について書かれている部分があるので転載させてもらおう。

「彫刻家として又版画家としての氏を知る人は多いかと思ふが、挿絵画家としての氏を知る人は案外少なくはないかと思ふ。ところが実は戸張君は寧ろ挿絵の専門家として最初に世にあらはれたのであつた。
 明治40年の頃と記憶する。戸張孤雁といふ人が、アメリカで挿絵の学校を卒業して来て西洋風の挿絵を描いてゐる、と聞いたのが私が君の名を知った最初であったのだ。それからまもなく、太平洋画会の展覧会であつたか君の挿絵風の仕事の発表を見た。之が私の君の仕事に接した初であった。それからの作は他から頼まれて描いたものでなく、当時の小説から取材して君が勝手に描いたもので、大方は水彩の墨絵であったがコンテの絵も交じって居たかと思ふ。当時にあっては珍しいものであつた。なかなか丹念に描いてあったが、『少し絵がかたいな』などと当時若い美術学生の私共は評しあつた。
 かうした君の挿絵風な仕事の発表は数年続いたと記憶する。最近知ったのであるが、戸張孤雁挿絵集といふ出版のあったのも其頃であった。恐らく君は挿絵画家として活躍する考であつたものと察せられる。ところが時勢が少し早すぎて、其頃は木版画の浮世絵風の挿絵の全盛時代であったから、西洋画風の挿絵は世の容れるところとならず、君の挿絵は遂に試作程度で終ってしまつたのは惜しい。其後幾年かして新聞雑誌にも写真版で西洋画風の挿絵が行はれるようになつたが、君の心が挿絵から離れてしまつたか、再び君の挿絵を見る事は出来なかつた。戸張君の挿絵画家としての出現がいま幾年かおそかつたら、君の挿絵は必ずやわが挿絵界に大きな足跡を印した事であつたらうと思ふ。別に挿絵画家とならうほも何とも思わなかつた私などが挿絵画家とされてしまつて、折角専門に挿絵を勉強して来た戸張君が世に入れられず忘れられてしまつたり、時のいたづらといふものはおかしい。」

戸張孤雁:画、「荒家の夜業」明治40年



戸張孤雁:画、徳富蘆花「不如帰」明治40年