ドクダミを描いた高雅な装丁の木下杢太郎『雪櫚集』(書物展望社、昭和9年)は自著に木版画を用いた唯一の本だ。



木下杢太郎『雪櫚集』(書物展望社昭和9年


「仙台にゐた時は閑が多く、しばしば庭の野草木を写生した。そこに越してくると、想ひがけぬ木の芽、花の蕾が時々に姿を現はし目を喜ばした。昭和九年の拙書『雪櫚集』は半ば其庭の写生文を集めたものであり、其本の表紙にも自ら庭の一部を写して之に当てた。どくだみとちどめぐさをあしらつたものであるが、思ふやうに刷り上がらなかつた。」(木下杢太郎「本の装釘」昭和17年)と、版画の出来が想うように行かなかったのか、辛い採点をした。


植物へ深い関心をみせる杢太郎には植物を題材にした装丁が多く、随筆も13篇ほどある。そんな植物を好む杢太郎の渾身の作ともいうべき『百花譜』は昭和18年から胃癌で亡くなるまでの約2年間に描かれた植物の写生図872枚を上下2冊にまとめたものである。ほぼ1日1枚のペースで描かれたこれらの絵は確かな観察力と描写力とに支えられており、植物図鑑よりも的確で美しい一種の絵日記にもなっている。


「雨宮庸蔵君の為めに画帖に即席に写したことはあるが、本の表紙の為めに画こうと思つたことは嘗て無かつた」と言っているように、評価の高い杢太郎の挿画は、ほとんどが装丁のために描かれたのではないが、大きな特徴でもある。少年時代からの希望であった画家ヘの夢がここに実っているかのようでもある。


 杢太郎の殆どの仕事を彫師として手伝った凡骨について、津田清楓は
「……伊上凡骨といふ風変わりの木版画師がいて、私のものも随分やったが、芸術化気取りの男なので却って工合が悪かった。春陽堂にはずぶの職人の木版師も摺師もかゝえてあって、大抵はその男にやらせた、その方が仕事がていねいでよかった。」
と彫師・凡骨を嫌っていたが、そんな凡骨もコンビの相手が変わると、神業のような仕事をした。


 与謝野晶子は彫師凡骨を
「早く江戸時代からの木版術の伝統を滅びようとする明治時代に、その技術を洋画家の版画に活用することに由って、復興を計った唯一の改革者であった。(中略)其の後ジンク版、写真版、三色版などが普及し、大量の印刷に適するとともに安価で出来るために、氏の木版術は殆ど需要を失ってしまったが併し氏が洋画家として文壇名家の装幀と装画に新生面を開いた功績は、日本版画史の上に不滅であり、其の多くの遺作が後の世にまで其れを証明するであろう。(「心頭雑草」・『冬柏』昭和8年
と絶賛し、江戸の伝統を伝える最後の技術者といわれた凡骨の技の冴えは、中でも木下杢太郎殿コンビで作り出した手摺り木版による装丁は、今日では、おそらくもう再び作り出すこともできないだろうと思われるような見事な作品を創出した。


「書物展望」誌の巻末広告には、
「装幀は著者の彩筆を木版二十數度手摺としあくまで渋く豪奢に仕上げた九年度木版摺裝中の逸品。著者筆の挿絵二圖、内容體裁相倶に近來の快著として全讀書階級の人々の御精讀をお薦めする。」と、1000部作るとなると、1枚につき「二十數度」も摺るのだから、合計2万数千回することになる。気の遠くなるような作業だ。