ゲテ本装丁家は齊藤昌三だけではない。ツワブキの葉の部分に漆を使った橋口五葉:装丁、夏目漱石『草合』(春陽堂、明治41年9月15日)。函には小包に使われる梱包用の紙を使い、表紙は馬糞紙と呼ばれる茶ボール紙をそのまま使った、谷崎潤一郎『攝陽随筆』(中央公論社、昭和10年5月)。杉皮を使った吉井勇『わびずみの記』(政経書院、昭和11年)。大量印刷本では珍しいゲテ本、朝日新聞で使用した紙型を函に利用した『朝日新聞七十年小史』(朝日新聞社、昭和24年1月)などなど、『草合』以外は齊藤昌三のゲテ本の影響を受けたものと


それまでの革、布、紙を使うのが当たり前であった装丁に対する概念を全く変えてしまい、広い範囲で装丁資材を使えるようにしたことは、造本界に新たな可能性を樹立したことであり、齊藤昌三の大きな手柄といってもよい。



橋口五葉:装丁、夏目漱石『草合』(春陽堂明治41年9月15日)



谷崎潤一郎『攝陽随筆』(中央公論社昭和10年5月)



杉皮を使った吉井勇『わびずみの記』(政経書院、昭和11年



竹内叔雄『竹』(昭森社昭和15年)。『西園寺公望』を彷彿させる筍皮装だ。それもそのはず、昭森社といえば、1935(昭和10)昭森社を創業した森谷均は、それまで書物展望社に勤めており、齊藤昌三から限定本書誌やゲテ装本の薫陶を受けた、直系のゲテ本装丁者とも言える。


森谷均は、書物展望社に勤めたころの様子を
昭和9年の春、大阪の会社勤めを退いて、六甲山系の東端仁川の山の上にいた僕の家へ使者が来て出馬を促された。当時第一次大戦後のパニックが出版界にも漸く訪れて来た折りもおり、共同経営者の岩本君に叛かれて斎藤君は孤影悄然といった風な有様だった。岩本君は書物展望社内にあつて別に双画房という出版社をすでに経営していた。(戦後だったか岩本君は亡くなったはずだ)斎藤君とは『愛書趣味』を通じての稚気でもあり、彼の著作の大部分は寄贈を受けていたが、かの文学芸妓として当時一部で著名だった花園歌子(後の故正岡容氏夫人)の大阪中之島の公会堂における新舞踏発表会にも片棒をかつがされたというような経緯もあつてとにかく東上、新富町のビルに入った。三村竹清さんの、深尾須磨子さんの、中原綾子さんの、辻潤さんの、北原白秋さんの本などからいわゆる展望社本に関係した。


……ところで当時の展望社の経済的危機は相当なもので、斎藤君の個人的支出にも協力さされるという風で、おいおい僕の負担限度を超えるように成つて来た。いささか出資に対しても殆ど回収の方途がなかつた。こんなことが残念ながら彼との協力を妨げる因をなして来た。彼の取りまきの中にも不愉快な動きを示す人もあらわれた。そうして別れた。……別れた僕は、折角展望社のために持参したプランの小出楢重の『大切な雰囲気』によつて昭和十年秋、昭森社として新しい出発をした。」(「日本古書通信」昭和37年2月)と、斎藤の困窮ぶりを伝えている。

『竹』の著者・竹内叔雄は竹の研究者だが、実は筍皮装には反対だったようだ。「竹皮の利用」という項にその辺の事情を書いているので、転載させてもらおう。


「……竹皮に斑點の少ない皮白竹はゲタ表に賞用されるが、苦竹では逆に斑點の多いことからして別の用途に使はれる。竹皮の甘膚を剥いで輸出向の書物の表紙に貼ることもその一つである。雲紋に似た斑點は、圖案やうに美しいからである。凝った仏蘭西の書物には、剥いだうすい人間の皮膚を表紙に貼るそうだ。竹皮の甘膚は、それに比べると値打ちはないが、野趣あつて却って面白い。


こんど出版するこの随筆集で、社の方では頗りと竹皮を表紙に貼りたがつたものだ。ひと事のやうに聞いてゐた竹皮の装幀が、いざ自分の事となると、今更のやうに氣後れがして妙に考へさせられたものである。『なんだか下品な氣がするので、なんなら孟宗竹の腊葉でも貼るとか、畫家の描いた竹の繪でも刷るとか、……。』と、迫って見たが、向こうでは未練が残るらしく、『でも……。』といつて、なかなか承知しさうにもなかつた。


私達が竹皮を何か下品なもの、汚いものゝやうに思ふのは味噌や生肉を包んだり、笠や草履を聯想するからで、裝幀にっこれを使って、ゲテ趣味を感じさせるのも、或いはそんな所から來るのではなかろうか。さう私は思ったので、『では……。』といつて、私の方で我を折つてしまつた。そしてその上、竹皮の世話まですることに約束してしまったのである。


それから二、三日經って、私は約束の竹皮を社に届けた。東京附近や茨城、栃木あたりのものは、乾かし方がぞんざいで汚點があつたり、須永ついてゐたりして質が悪いので、結局甲州産の上等のものばかりを届けることにした。やがてそれが立派な装幀に變わつて現れるのであらうが、果たしてどんなものが出來上がるか、その日が來るのが何ともまたれてならない。」
と、最後まで出版社・森谷均の申し出を怪訝な目で眺めている。


著者・竹内叔雄の心配は美事に的中してしまい、書物展望社の『西園寺公望』とは、比較にならないほどにみすぼらしい装丁になってしまった。共通点は、どちらも筍の皮を使ったということだけで、芯ボールが薄手なので、表紙は反り返り、芯ボールには面取もされていないし、継表紙の背が紙というのも何ともお粗末で、齊藤昌三と中村重義のコンビニは及びもつかないものになってしまった。



「工芸」(日本民芸協会、昭和12年)。『草合』と同様、特漉和紙の表紙に型紙を使って題字を漆で抜いている。



朝日新聞七十年小史』(朝日新聞社、昭和24年1月)