ゲテ造本の女房役・製本家中村重義について書かれた文献は少ない。そんな中、齊藤昌三が、「書物展望」(昭和9年12月号)に「少雨荘の背景」として書いたものがあるので、転載させてもらおう。


「よきにもあれ、あしきにもあれ、自分の装釘界に対して試みた趣味が近年の斯界(しかい)に多少の刺戟を与へたといふことは愉快である。或る人は予輩のの趣味を発揮し過ぎたともいひ、奇に走り過ぎたとも評してゐるといふが、幸か不幸か内容を殺すようなことはしなかつたし、或いは自分の趣味を高唱したとは云つても、決して装釘を主としたり内容に没交渉なことは一度もしてゐなかつたことは、再び繰り返して説明するまでもない。


只、自分をして思ふまゝに幾多の異なつた材料を活かして呉れたのは、自分の片腕となつた製本師中村重義があつたからである。彼とは『書痴の散歩』からほんとうに相識となつたので、如何に予が材料に苦心してもそれをかつようする彼の熱心がなかったなら、折角の予の考案も殆ど成功を見なかつたことゝ思ふ。少しく自分畑の宣伝になるが、一面セチ辛き世の中に彼の如き変物の存在を紹介することも無意義なことではあるまい。


彼中村に大した学問はないが、一時は代用教員になる位の殊勝な考へもあつた。長野県深田町の産で、善光寺ッ子ではあるが、十三から東京に飛びだして、づつと製本職工として揉まれて来て今日に至つたので、性来の負けず嫌ひと──従つて喧嘩早いのと宵越しの金が持つて居れない性格は、純粋の東京ッ児にも負けぬ長所短所をもってゐる。


彼は十三で銀座の山岸製本所の見習工となり、二十六で独立して神田に工場を持つたが、五年前に京橋に移つて間もなく、ふとしたこと(*1)から自分と接するやうになつた。本年三十八歳の男盛り、子供は半打あるが、飲むこと遊ぶことは今以ておさまらない代物である。


かれは若いときから箔入りには人後に落ちない自信を持つてゐたし、本格的の仕事には熱と興味を有してゐたので、山岸からも特に引き立てられてゐたものゝ、時々飲み過しや居続けや、仲間との衝突やで山岸を飛出したことが前後四十八九回にも及んだといふが、その都度主人から呼戻されて了つた。彼は若いときから着道楽と食道楽であつたが、曲げることも亦道楽であつた。


山岸(製本所)が成功したのは外交よりは技術をモットーとして小川一真、丸木利陽を活躍さした『華族画報』の刊行であつたが、失敗も亦この出版からであつた。彼はこの製本に従事したのであった。この書は一部の売価実に二千八百円と称するもので、大正の初期に各華族社会に納入した真の豪華版であつた。次で『御大葬写真帖』の豪華版となつたがこの製本に当つたのは、同輩の和本師上田老であつた。厚さ四寸の目貫しを狂ひなしに打てたのは、この上田老だつたと今に彼は上田老に敬意を表して往復してゐる。歌集『秘帖』の製本もそんな縁でこの老を煩はしたのであつた。



齋藤昌三:装丁、中河与一『歌集秘帖』〈臼井書房、昭和18年2月)、製本:上田