彼の関係した一世一代は実にこの『華族画報』であつたが、予が彼を話せる男と知つたのは漱石の『猫』(『吾輩ハ猫デアル』)の縮刷版を、彼が手がけたことがあると知つてからである。

彼も勿論一般製本所として円本もやれば、大量物にも応じてゐたが、一度『書痴の散歩』の下手ものに手をつけてからは、全く予の趣味に共鳴して了ひ、それ以来他から
の註文も余り喜ばなくなつて、こちらの出版はつきに一度出たり出なかつたりの道楽的のやり方だけに、却って彼に気の毒になり、彼の家庭をも極度におびやかすやうになつたが、彼はそんなことを意に介せず、ときには二三ヶ月も遊んで了つて妻子職人の口を空けて了ふことも度々あった。



橋口五葉:装丁、夏目漱石『吾輩ハ猫デアル』袖珍本(大倉書店、明治44年7月)、中村重義:造本


若し、予の装釘が多少でも世上に認められたとせば、その功の一半は実に彼の犠牲的研究心の結果で、『西園寺公望』以下『野客漫言』『梵雲庵雑話』『成簣堂閑記』『阿難と鬼子母』『書斎の岳人』に至るまで前後約二重種の造本は、予の陰になりひなたとなつて労苦を共にして呉れた彼の賜ものであつた。


古番傘の再生加工、筍皮の糊の研究、コツトンや純和紙の天金銀の苦心など、寒雨の裡(なか)を小田原の竹細工屋を探査したり、夜を徹して箔と糊と和紙の関係を研究したり、誠に涙ぐましい努力を積んで呉れたのである。
予は既往の装釘が時には失敗の作もありながら、大体大過なかつたことは、彼の熱心に負ふ所が多大であると感鳴してゐる。


見る人によつては彼がナマケ者であり、呑ン平でもあり、従つて幾時でも御同様のモン無しであるが、部下に情けの篤いことゝ、常に研究心に燃えてゐる熱とは、御安直主義の現在の製本界には珍しい存在として、彼の将来を真に活かして見たいと思ふ。最近ブラジル大使も彼の造本にすつかりほれ込んで、事務の多忙の中でも彼が訪ねると話合ふことを喜んでゐるが、大使も亦真の愛書家として話せる男である。


彼に就いては尚ほ語るべき多くの奇行もあるが、余りにかき立てることは、前途ある彼の将来に慢心を与へぬとも限らぬので、本稿を一ト区切りするに当たて、一言彼の愉快なる存在を附記して見た。」(「書物展望」昭和9年12月号)

と、長い引用になったが、誹誉褒貶で、褒めたいのか貶したいのかよくわからない。毒舌家の昌三にしては精いっぱいの褒め言葉を並べたつもりなのだろう。


(*1)中村重義は「私が斎藤先生を知ったのは三十数年前、昭和の初期辻潤先生の紹介で始めてお目にかかり、その晩から飲み歩きが始まった。」(「古書通信」昭和37年2月)と、記している