木村荘八『近代挿絵考』(双雅房、昭和18年)の最初の頁に「矢来先生に捧ぐ」とあるが、この「矢来先生」とは序文を書いた「夜蕾亭清方」のこと。巻頭の写真には「紫陽花舎画室」で木村荘八、岩田専太郎、鏑木清方の三人が頭をそろえて何かに見入っているところが写っており、「矢来先生」とは鏑木清方のことであることがわかった。



木村荘八『近代挿絵考』より転載。左から岩田専太郎木村荘八鏑木清方


前回掲載した相撲の写真もすごいが、この写真のメンバーも豪華だ。
荘八にとって清方は尊敬私淑する人物であり「僕は鏑木さんに面と向かふと“先生”と呼ぶ。かげで人と噂や取沙汰に呼ぶ時は“鏑木さん”又は“矢來町”である。かういふ相手方のひとのいつとなく互ひの空氣の中で出來る呼び名は、その音や言葉に云ひ知れぬ實感の籠つた、面白いものであるが、鏑木さんは僕を“木村さん”と云って下さる。又僕は鏑木さんを目の前では、鏑木さんとは決して呼べないのである。」(『近代挿絵考』)と書いているように、特別の存在のようだ。


長年の清方ファンであったことをこんな風に書いている。「この鏑木さんは又僕にとって古いお方である。親しく御知りあいひになつてからは二十年経ってゐないにしても、僕は今年五十歳であるが──と書きながら僕のやうなものも早や五十歳になつたかと今更ながら時の経過を思ふ。鏑木さんは明治十一年生れ、寅どしの六十五歳になられた筈である──その僕が鏑木さんを感知してゐる年月は、とうに四十年に近づかうと長きに及んだ。」(前掲書)と、逆算すると10歳からのファンだったと言うことになる。



鏑木清方:画、「魔風恋風


「當時、岡鹿之介君のお父上の鬼太郎さんの書きものなどは、殆ど雑誌の毎號を缺かさず通讀してゐたものだし、『新小説』や『文藝倶樂部』──今で云へば『中央公論』『改造』──はその編輯振りの匂ひも身近く、毎號聞きわける親しさで接してゐた。そして云ふまでもなくそれ等の“匂ひ”の中には、わが鏑木さんは珍しからず墨繪なり色繪を介して、或る芝居の座附俳優が常にこの座の定連の見物人にとつて顔なじみであるように、親しくいつも登場された。“清方ゑがく”はそんなわけで、年少以來ずつと僕になじんで來たのである。」(前掲書)と、熱烈なるファン振りを披瀝した。