青山二郎は、「青山学院」の取り巻きである小林秀雄、川上徹太郎とともに昭和12年に四谷愛住町に移転してきた創元社東京支社の編集顧問をしており、そのころから多くの創元社出版物の装丁を引き受けるようになる。地図で見ると、四谷愛住町と花園町は隣町で、徒歩でも7〜8分くらいの所で、今は曙橋や四谷三丁目が最寄り駅になっている。他にも松村泰次郎、高市菫生などの「青山学院」に出入りする社員がおり、創元社とは深い関係があったようだ。



「四谷わくわくマップ」(四谷地区協議会、新宿歴史博物館、平成21年)部分。ピンクの○にGとあるのが四谷花園アパートがあった花園東公園。右中央に緑色で愛住公園とあるあたりが、創元社東京支社があったところ。「それいけ!アンパンマン」のやなせたかしの店がU。右下のCは「四谷怪談」のお岩さんで知られる於岩稲荷田宮神社。


そんな創元社本の装丁を青山二郎は、一体いくらで引き受けていたのだろうか。孫引きになるが『四谷花園アパート』(前掲書)に掲載されている青山の文章を転載させてもらおう。


「僕は友だちの本と友だちの紹介の外は装幀お断りといふ事にしてゐて、装幀料は単行本で五十円と決めてゐる。宜しう御座います、何分宜しく、何アに払わなきや同じだ、と言ふ本屋にかゝつちや敵はない。それでもお蔭さまで、詰まらない本の装幀はやらないから、装幀家青山二郎の装幀は誰が何と言っても困つたものなんだけれど、看板だけは良い。もう三十冊位になるかしら、陶器の本や雑誌を入れると五十位にもなる。小林秀雄が一役付けて呉れて、今では此の道で若い人が僕の名前を知らなかつたら場違みたいなことになって仕舞つた。」(「装幀と出版」、『文芸懇話会』昭和11年12月)


と、特定の人物の本に限って、装幀を引き受けていたようだ。装幀料は「単行本で五十円」とある。この五十円は、当時の大学卒の初任給の値段だそうだ。今の値段に換算して見ると大学卒事務系の全産業の平均初任給は20万8306円(「日本経団連発表」)だから、約21万円ということになる。
ちなみに、週刊朝日編『値段の明治大正昭和風俗史』(朝日新聞社、昭和56年)によると、昭和十年「巡査の初任給四十五円」とある。


さらに高額を払う出版社があった。島木健作『続生活の探求巻』(河出書房、昭和13年)の装丁を引き受けるときの手紙で、昭和13年5月8日付封書「先日五十円有難く前借。島木さんの話だと此度は装幀料百円出すと手紙にあつたので、非常に喜んで張り切つて仕事に掛つてゐますが、そちらで苦情が出るとアトになつて面白くないので一応手紙を書きましたが、島木さんの手紙では、河出書房は百円出すと言つてゐるから宜しく頼む、叉箱や表紙もカントクして呉れと書いてあります。右の件、確かな御返事を一度頂きたく、それがしつかりしなければ夜もオチオチ眠れません。」(えびな のり「死ぬまで装幀家だった人」、『別冊太陽 青山二郎の眼』平凡社、1994年)
と、今の金額にすると42万円に相当する装幀料を支払うと言う。この本はベストセラーとなるので、本当にそのくらい支払われたのかも知れない。


手がけた装幀総数が30冊というと、今日ではほんの駆け出し装幀家だが、かなり良い値段だ。今もこれを参考にして、大学卒の初任給を装幀料の基準にしてもらいたいものです。