『挿絵文化展記念図録』に鶴三が戸張孤雁を懐古

日本出版美術家連盟の理事会に日程の勘違いで欠席してしまい、おかげで講演の準備に没頭できた。これ10分間のプロットなのだが、これ10分で話せるか? 2分割するか!
【講演会用プロット作成…4/15】
☆4.明治期の挿絵と洋風挿絵画家たちの苦難☆
◆4-1明治初期の読本類の挿絵は幕末以来、変わることなく浮世絵師の仕事であり、今日珍重される明治版画の名家小林清親やその弟子井上安治、小倉柳村なども『板下絵師』の名でそうした仕事をしていた。
◆4-2 明治22年創刊の『百花園』の第一号に、挿絵として井上探景、小林清親、歌川国松の名があり、これ等はまぎれもない浮世絵師であるが、同じく21年創刊の画期的な少年雑誌少国民』には、壮年の小堀鞆音が挿絵家として活躍する。
◆4-3 洋画家による画文一体の挿絵の萌芽と壁
明治18年初刊の逍遥の『当世書生気質』には、はじめ洋画家長原孝太郎(止水)が挿絵をし、画文一体の文明開化方式を期したのであるが、のちに挿絵の名家の定評を得た孝太郎の挿絵は当時不評判で、わずか二枚で中止させられている。
◆4-4 挿絵画家を断念した戸張孤雁
石井鶴三「記念講演会速記 挿絵寸感」(『挿絵文化展記念図録』日本電報電信社、昭和16年、写真)に、洋風挿絵画家を目指しアメリカに留学した戸張孤雁だが、明治40年頃の日本では受け入れられなかったことを懐古している。 



◆4-5 30年代になると、洋画家の挿絵が新鮮感をもって迎えられるようになる。正岡子規の随筆『松羅玉液』(明治29年)に『小説雑誌の挿絵として「西洋画を取るに至りしは喜ぶべき事なり」と称賛。『書生気質』に近代的光線を採り入れた挿絵で拒絶された長原孝太郎は、明治32年には、新雑誌『明星』の挿絵家として華々しく迎えられている。

講演会参加方法:4月13(日)10:00から7F芸術書売場にて、「粋美挿画」購入の方で希望者先着50名に参加整理券を配布いたします。 http://www.kinokuniya.co.jp/c/store/Shinjuku-Main-Store/20140414100021.html