大貫伸樹の続装丁探索(恩地孝四郎)9

shinju-oonuki2005-07-01

恩地孝四郎装本の業』(三省堂、1982年)を探していたが、発売後23年も過ぎており絶版となってしまったため、なかなか入手できなかった。この本の版元である三省堂とは仕事の関係もあり、打ち合わせに行った時に出版局出版企画センター長の飛鳥さんに拝見できないものかどうか尋ねたら、快く拝見させていただくことが出来た。
 
 A4判変型の大型書籍に523点の書物の書影が掲載されており、中には実物大ほどの大きさで記載されている書物もあり、感激させられる。何度も何度もくりかえし眺めていると恩地のこだわりが見えてくる。
 
 夢二が帝展に落選したのと同じように、恩地も昭和5年10月に『双貌」を出品し落選している。私は、恩地の双本が面白くなるのはこの帝展落選からだと思っている。大正期から円本全集の頃までの作品は、恩地自身が追いかけている表現と、装丁に現われた作品との間にはおおきなズレがある用に見える。
 
 表現者が本当に造りたいと思っているものと、装丁作品が一致した時に本当によい作品が生まれるものとおもっているが、大正期にはそれがかなわなかったのではないかと思われる。恩地自身が大正期の頃の作品を振り返り「所謂オンチ式といふ裝案畫、まやかしのルネッサンス又はゴシック唐草、そういったものが漸くすたれて此頃はわりに自分勝手なものが通用出來るやうになりました。これといふのも世間が進歩して、西洋で構成派とか表現派とかが生れ、物まね日本がまねして呉れて來たおかげだと有難く思ってゐます。すきをねらっては自分勝手なものをかいてゐます。」(「書物と装釘』第1巻第1号、昭和3年)と、いっている。
 
 一時期とはいえ上の野山の芸術家への憧れを抱き追いかけようとしたのも、他人の意見に左右されなければならない、受注生産という装丁業そのものが持つ逃れられない偽りの表現システムからの逃避願望だったのではないだろうか。そんな一品制作の芸術家への憧れにきっぱりと印籠を渡すことが出来たのが、帝展落選だったのではないかと推察する。
 
 恩地の作品が目を見張るような勢いで変化し、「月映」のころに目覚めて、以後装丁作品には封印してしまった抽象的表現が、まるで堰を切ったかのようにあふれ出す。恩地の真骨頂が見られるのは、昭和5年の帝展落選の頃から第二次世界大戦前日までである。

などがそれを示す作品である。