挿絵師のその後、板下絵師に代わって、日本画家系の挿絵画家が台頭してくる明治20年代について、匠の論説にさらに耳を傾けて見よう。

「しかし、浮世絵師に端を発し、社会的に位置の低かったそれら職人がまかなった明治初年の読本挿絵の伝流も、明治二十年代に入って、活版雑誌類が広まるにつれ、その弟子達から、かつての低俗板下絵師の扱いを離れるようになっていった。


明治二十二年創刊の『百花園』の第一号に、挿絵として井上探景、小林清親、歌川国松の名があり、これ等はまぎれもない浮世絵師であるが、同じく二十一年創刊の画期的な少年雑誌少国民』には、壮年の小堀鞆音が挿絵家として活躍するのである。



少国民」(学齢館、明治28年11月)



小堀鞆音:画、「兆殿司少時不動を描く」(「少国民」口絵、学齢館、明治28年11月)


回顧の一文によると、“先生(注・鞆音)の挿絵と口絵は、断然『少国民』を背負ってゐた。その挿絵がどれ程当時の少年青年の血に燃ゆる若き心を刺激したかは、靫彦、国観、長秋、栄達、栄雅、及び天洋氏等は皆この『少国民』の挿絵に発奮され魅惑されて先生の下へ集まったのである”、と記されているように、明治の日本画を代表するようになる人々が挿絵家として登場してくるのである。」
と、板下絵師に代わって、鞆音に憧れた青年たちが、日本画家系の挿絵画家として登場してきた。そして、暫くは日本画家たちの独壇場が続くことになる。


「その一人、鏑木清方の回想に『文芸倶楽部の木版口絵は常に一流の大家の執筆するところで、駆け出しものの寄りつけぬところであった』、とあるように、明治二十年代の挿絵家は、もはや低俗なる版下絵師ではないのであるが、その一流大家というのは日本画家としてであって洋画家はまだ登場することは出来なかった。」