明治以降から大正末期頃まで、挿絵が本絵に比べ卑下されていた時期があった。その時期と卑しいもののように思われた理由について、木村荘八は『近代挿絵考』(双雅房、昭和18年)に

「一體さしゑが版行盛んなのは幕制以来のことで、何の不思議もない。只近頃で見ると、一時さしゑ或いは挿繪師と云うのが、直ちに板下仕事の意味にとられて、肩身を狭く取扱はれた時代がある。多少具體的な云ひ方をして見ると、水野年方あたりからも上野の山の仕事(展覧会もの)に精進された頃から、その門の鏑木清方などが、却って上野をこそ切つて廻す花形になられた頃、大體、まあ、文展開設(明治四十七年)以來と云へばいゝやうである。


鏑木清方:画、「娘ざかり」(「講談雑誌」第1巻第1号、大正4年4月)



鏑木清方:画、「秋のおとづれ」(「講談雑誌」第1巻第6号、大正4年9月)



その上(かみ)の「挿繪家」は寺崎廣業と云い小堀靹音、松本楓湖……何れも錚々たる山上の人となり、小竹兄弟なども「山」の手柄を専ら謳われるやうになる。板下繪師の柄合(がらあい)とは、雲泥の相違を來すのである。


然しさしゑと云ふ仕事は依然として─その當時は主として日本画畑にであったが─行われていた。従つて、純粋の挿繪師もある。竹内桂舟などは近世の終始一貫した挿繪師タイプとして、記憶されるべき人だらう。或ひは梶田半古だとか、月耕、永洗、英朋……古いところでは小林永濯や、變つたところでは山中古洞等々……現在も『都新聞』に執筆して居られる井川洗涯など、我々、古いなじみである。


只繪かきの生活線の上に『山』の一角が開拓されてからと云ふものは、山(展覧会)こそ畫家行状の獨壇場なり、檜舞臺となつて─尤も檜舞臺なることには異論ない迄も、これが延いて、山に登場しない者は、日陰だ、板下かきだ、即ちそれが『挿絵師』だ……と云ふことになる。」
と、明治末期から大正期にかけての「山」に登場しない画家を一段低く見る傾向があったという。


「事實上『山』へ打って出る迄の腕の覚えは確かでない者が、さしゑの孤塁に據つて─同時にそれは『濱繪』となり『仕入屏風』となり『圖案下繪』となる。『山』風な仕事を本繪と云ふに對して之等は総じて應用と云つたさうである。(『美術新論』昭和八年十月号橋本関雪稿参照)─兎に角それを身すぎの便法として、その弱氣だけで、之に引籠り易かった形跡は蔽えないにしても、餘りと云へばそのさしゑ(板下)そのものが仕事の『格』ごと、堕められた形跡は、決して無いと云えない。そしてその頃黙々として挿繪を描いてゐた『山』以外の作家達は、引くるめて一時、畫道の日陰者扱ひに浴さゞるを得なかったこと、亦確かである。─これを時期で示せば、文展開設以來、大正震災の頃まで、ざっと十五年、かう云ふことが出来るだろう。」
と、文展開設(明治四十七年)以來、関東大震災までの期間には、挿絵そのものが卑しめられ、挿絵を生業としているものは総じて日陰者扱いされていたという。