専太郎は「私の家の向かい側は、浅草の常磐座に出ている役者の家で、その隣りが常磐津の女師匠の家だった。常磐津の女師匠は、たぶんお妾さんだったのであろう。いろんな男の人が出入りしていたが、たいがいお弟子さんで、どれが旦那かは、わからなかった。お師匠さんは、私を可愛がってよく抱きにきてくれたが、たしか二歳か三歳のはずなのに、不思議と、袋に包んだ三味線の壁にかかっていることや、赤いおおいのある鏡がおいてあったことを覚えている。長火鉢もよく磨いてあって、鉄びんがちんちんと音を立てている静かな家だった。」(岩田専太郎


と書いており、「袋に包んだ三味線」や「長火鉢もよく磨いてあって、鉄びんがちんちんと音を立てている」など、まさにこの文章にかかれているとおりの幼い頃の記憶のなかの風景をもとにして、室生犀星「続妲妃」(プラトン社「苦楽」、大正14年)の挿絵は描かれたものとおもわれる。



岩田専太郎:画、室生犀星「続妲妃」(プラトン社「苦楽」、大正14年


さらにこの挿絵は、「近松門左衛門傑作集とか、江戸人情本選集なぞというものにも気を引かれていた。長田幹彦の、祇園をあつかった作品が、多く生まれたのは、そのころだった。竹久夢二の装幀になる、きれいな小型本が、いくつも出版された。そのうち『祇園情話』か『祇園夜話』かを手にした私は、その華麗な文章に魅せられた」(『わが半生の記』)


と書いているように、小学校を卒業し目的もなく親元でブラブラと過ごしていた13歳の時に、夢二本を手に入れていたらしく、その時の本『近松情話』の表紙装画に見立てて描いたものと推察する。



竹久夢二:画、長田幹彦近松情話』(新潮社、大正6年


専太郎が、画家になろうと思い立ったのも、この頃だった。父親に「お前も、そろそろ何になるか決めなければならないね。思うとおりにはゆくまいが、遊んでばかりもいられまい。どこか気の向いたところをみつけて、奉公に行くか」といわれたのがきっかけで、「私は画家になろうと思った。


印刷に関係のある父親の仕事のほかにも、親戚に絵草紙や、版木屋、木版の刷り師なぞがあったせいか、幼少の頃から絵の類いを見る機会が多く、いつのまにか、私は絵を描くことを覚えていた。京都へきてからも、所在のないままに、雑誌の口絵なぞを模写して時を過ごすことがよくあった。」が、美術学校へ進もうとしたが、中学校を卒業していなかったので、絵画専門学校へは進学することが出来なかった。