岩田専太郎の最初のさし絵は?

この岩田専太郎の「講談雑誌」に寄稿した挿絵がデビュー作となるので、早速探してみた。専太郎の挿絵が掲載された「講談雑誌」は、とりあえず
・田中空雷「大探偵譚 人形の片腕」(「講談雑誌」第6巻4号、大正9年4月)
・百川如燕「実録伊達騒動」(「講談雑誌」第7巻1号、大正10年1月)
国枝史郎「蔦葛木曾橋」「講談雑誌」7巻1号、大正11年9月)
の3冊を見つけた。


そのうちの「実録伊達騒動」が掲載されている第7巻1号を日本の古本屋に注文したので、届いたら報告しよう。


荻窪の岩森書店さんに、「講談雑誌」第六巻第二号(大正9年2月) 桃川如燕、三遊亭一朝、小圓朝他、博文館というのがあるようだが、専太郎の挿絵が入っているかどうかを確かめるために、夕方になったら行ってみようと思う。
もし、これに掲載されていたとしたら、これがまさに専太郎のデビュー作となるものだ。


わざわざ荻窪まで見に行くのは、岩田専太郎『わが半生の記』(家の光協会、昭和47年)に、最初の挿絵の仕事を依頼された時の様子を次のように記してあるからだ。
「……生田さんは、すぐに仕事をくれた。はじめて渡された原稿は、講談の速記『赤穂義士銘々伝』の岡野金右衛門だった。まだ木版を使用しているころなので、雁皮紙といううすい紙へ毛筆で描くように。ということだった。うれしかった。」


「……岡野金右衛門のさし絵をおそるおそる持っていくと、何もいわずつぎの原稿をくれた。赤穂浪士千馬三郎兵衛伝のほかに、読切講談の速記だった。」


「当時は、ひきかえに原稿料もくれた。一枚が二円の割だった。これもうれしかった。それまでの賃仕事一日五十銭にくらべて格段の相違である。大学での月給が四十円ぐらいのころだから……。」


「……雑誌の中の挿絵は私の描いた絵とはいっても、まるで違ったものに見えた。木版の彫り師の刀のためか、印刷されたものは画家としての私の意に満たないものだった。はじめてのさし絵の仕事をした私には、その違いかたが不愉快だった。」


「年が明けて大正九年の正月も終わりに近く講談雑誌の二月号が、発行されると、その誌面に私の描いた絵が掲載された。」


これが、専太郎の記憶によると、最初の仕事ということだ。
しかし本日、荻窪の岩森書店で大正9年2月号を見てきたが、『赤穂義士銘々伝』の岡野金右衛門赤穂浪士千馬三郎兵衛伝等は掲載されていなかった。


2011年1月29日に100歳の誕生日を迎える現役最年長の挿絵画家・中一弥氏は82年間挿絵画家として活躍し続けることになり、岩田専太郎細木原青起が50年間活躍して長寿と言われているのに比べると、中一弥氏の超人ぶりがいかほどのものか、今さらながら驚かされる。