やはりこれが、岩田専太郎のデビュー作か。「図書設計」巻頭特集執筆

■以前にも書いたが、岩田専太郎は1919 年(大正8年)12月、父親の友人・吉田六に勧められ「講談雑誌」を発行していた博文館・生田調介宅を夜中にいきなり訪ね、さし絵画家としての採用を願い出て、挿絵画家として採用される。1920年大正9年)19歳の時に「講談雑誌」3月号に掲載された一竜斎貞山「音羽屋火事」と齊藤金鴬「床下小函」で挿絵画家としてデビューしたとの説もあり、専太郎自身の記憶より、どうもこちら説の方が正しいような気がしてきた。



岩田専太郎:画、一竜斎貞山「音羽屋火事」(「講談雑誌」、大正9年3月号)


それにしても専太郎自身が『我が半生の記』に記している「大正九年の正月も終わりに近く講談雑誌の二月号が、発行されると、その誌面に私の描いた絵が掲載された。」としている講談の速記『赤穂義士銘々伝』の岡野金右衛門赤穂浪士千馬三郎兵衛伝はどこに掲載されたのだろうか。二月号と三月号は記憶違いとしても、掲載されたという絵は、どこかに載っているものと思われる。


全巻を揃えてみることができないのが、沓(くつ)をへだてて痒きを掻くようで、なんとももどかしい。