石井鶴三が戸張孤雁の挿絵界への貢献を講演

石井鶴三「挿絵寸感」(『明治・大正・昭和 挿絵文化展記念図録、昭和16年)に、東京美術院研究科で知り合った戸張孤雁の洋風挿絵の先駆者として挿絵界への貢献について述べている件があるので転載させてもらおう。

「明治の末から、大正初期にかけて挿繪の衰退期ともいふべき處を經過して、大正の終り頃になりますと自然に挿繪勃興の気運が向いて來まして、一般に挿繪といふものが注意されるやうになつて参りました。私も及ばず乍ら挿繪に努力して参つた丈けに、挿繪が理解されるやうになつたことは喜びとする處であります。

 此處で思ひ起こしますのは、既に物故した友人の戸張孤雁の事であります。戸張孤雁の遺作が此會場にも二、三出て居ります。戸張孤雁の名前をご承知の方は──若い方には如何と思ひますが、御記憶の方があらうと思ひますが、併し戸張孤雁は彫刻家として、また版画家として人に知られて居つたと思ひます。これを挿絵画家といふことでご承知の方は恐らく少なからうと思ひます。が、戸張孤雁が世に打って出た最初は挿繪画家であったのであります。慥か十九歳の時だと思ひますが、アメリカに渡って、彼の地の挿繪専門の學校に這入つてそこで洋風の挿繪を學んで歸つて來たのであります。これは明治四十年頃で、恰度我國の挿繪の衰退時代でありまして、此時に戸張孤雁は此の洋風の挿繪を興したいと努力して居つたのでありますが、世の容れる處とならず、殆ど戸張の挿繪方面の教養といふものが寶の持腐れのやうな形になつて仕舞つたのでありまして、非常に残念に思ふのであります。

 此後挿繪が復興して参つて、洋風の挿繪というふものが世におこなはれるやうになつて参つたのでありますが、その頃戸張はどういふものか、挿繪に志を絶つて居つたやうで、彫刻の方に移り彫刻を一生懸命にやつて居つたのであります。戸張孤雁といふものがもう一寸遅く歸つて來たならば恐らく挿繪畫家として戸張孤雁の仕事は相當残されたものと思ふのであります。洋風の挿繪が世に行われるやうになつたのは、どういふ處からさうなつたか詳しく研究もして見ませんが、或ひは戸張孤雁が明治四十年代に、一般の人々が未だ洋風挿繪といふものに全然心を止めて居ない時代に此の方面の運動を起こして居つた、その努力が數年經つて世に現れたのではないかと考へるのであります。戸張が一個の石を池に投入れたその波紋が擴がつて行つたと、そういふ風に見られない事も無いと思ふのであります。この點彼の功績を忘るゝ事が出來ない、此機會に一言亡友の此の方面の努力に就いてお話申上げた次第であります。」
と、亡き友・戸張孤雁の忘れ去られてしまいそうな挿絵界への功績について講演している。
 戸張の挿絵には
徳富蘆花の『自然と人生』『不如帰』
木下尚江の『良人の自白』『乞食』『墓場』
などがある。