森下雨村は、英文科卒後、やまと新聞記者となるが、長谷川天渓の勧めにより博文館に入社。「冒険世界」の編集後、大正9年「新青年」に改題、創刊編集長を担当。探偵小説・江戸川乱歩を世にだした雑誌「新青年」初代編集長として知られている。1916年頃から「少女の友」に作品を発表、さらに佐川春風の名で「少年倶楽部」に少年探偵小説を書き続けた。「新青年」は1920年代から1930年代に流行したモダニズムの代表的な雑誌の一つでもあり、モダンなさし絵なも評判が高かった。
「新青年」で専太郎は、伊藤雄松「サクラ・ハウス事件」(「新青年」昭和2年3月号)、長谷川伸「鱈の太湖船」(昭和6年2月号)、横溝正史「真珠郎」(「新青年」昭和12年2月号)などのさし絵を描いた。
下記の専太郎のさし絵も「新青年」を彷彿させるモダンな感じがいい。
岩田専太郎:画、森下雨村「チョコレートの函」(「日曜報知」昭和8年)
岩田専太郎:画、森下雨村「チョコレートの函」(「日曜報知」昭和8年)