木村荘八『近代挿繪考』(双雅房、昭和18年10月)。戦時中の酸性紙を使っていたのだろうか、パラフィン紙に包まれていたジャケット(カバー)は、包みをほどいただけでぱりぱりと割れるように崩れてしまう。
その前に「文展開設以来大正大震災に至る迄」についての説明をしていただこう。
「僕は假に、幕政時代を前史として、明治に入り、小林清親時代を第一時代に數へ、これは大體單色時代であるが、次に、同じ板下の仕事が「口繪」と「さしゑ」のかなりはつきりとした二分野に分かれた時期、春陽堂本時代と云うべきものがある。「口繪」は木版極彩色で、その筆者名も大きく謳はれて出ながら、「さしゑ」の方は粗末な機械版扱ひで、筆者名もろくに明かされずにゐる、年方・清方の時期があるわけ。──これを第二時代に數へたいと思つてゐるのである。
水野年方(上)、梶田半古(下)による口絵。『近代挿絵考』より転載
それから第三時代へ轉じ、これがまあ「現代」への契機となると考へたいのであるが、この第三時期は第一時期のやうに専ら單色版時代に戻つて、──しかし思へらく、挿繪の美の醍醐味は単色版にこそあるものだ。──時期のきつかけを名指しして云へば、前記の、小説『東京』に於ける場合の挿絵家石井鶴三の初登場から。
鏑木清方(上)、石井鶴三『東京』(下)、『近代挿絵考』より転載
この第三次挿絵時代、つまり「現代」へかけては、、石井鶴三は畢竟大きな名である。時期のきつかけも、矢張り此の人から出てゐるのは、それが因縁であらう。──その次に、我々三人一座の『富士に立つ影』が來ることとなる。鶴三のコロムブス航路に繼ぐ我々に長航マゼランの艱難辛苦は、これはどう遠慮したつて、あることなので。(ここに思合わすのは白井氏の「大衆文学」といふ言葉である。これも當時、なほ生硬以外には、一般化されるには至ってゐなかつた頃である。