五六年前のことですが「みずゑ」誌上に"杉本健吉君への手紙"というのを書き、さしゑなんかばっかり描かないでタブローをこころがけてほしい。という意味のことを述べたことがあります。杉本君はとてもすなおにそれをうけとってくれ、自分もそうしたいと思っている。という気持を書いた私信をくれました。そしてその年だったか翌年だったかにたしか仏像写真の入江泰吉氏といっしょに三越かどこかで展覧会を開いたとき、コンテの風景画や狂言の舞台の絵のほかに奈良博物館の陳列室を描いた油絵二三点出しました。コンテ画はもとより悪くありませんでしたが油絵もシットリした色調のもので、むしろ油絵具をよく使いこなしている作品でした。しかしわたしにはどうも味がかっている作風がきになりました。
それからしばらくたってからのことだったと思います。「朝日新聞」の"新・平家物語"のさしゑを描くようになり、わたしはづっとかかさづ毎週見つづけてくるうちに、自由闊達に描きまくっている彼の仕事ぶり、その毎週のものの中でかならず一点か二点はこころにくいほど白黒のニュアンスを出し得ているものがあるのをみとめないわけにはいかず、わたしは二度と杉本君に油絵を描け、少なくともそれが本道だ、というようなことは言うまいと思うようになりました。
杉本健吉:画、吉川英治「新・平家物語」(「週刊朝日」1050-57年)
杉本健吉:画、「大仏殿炎上」(吉川英治「新・平家物語」、「週刊朝日」1050-57年)
杉本健吉:画、「貴人遭難」(吉川英治「新・平家物語」、「週刊朝日」1050-57年)
たいていの画家が、ほんとうの仕事は展覧会へ出すタブロー、さしゑやカットはアルバイト、そういう考えをもった人が多かったように思われます。わたしたち評論をする人間も、展覧会作品のことばかり言って、そのほかの仕事については何も言わないといった態度をとってきがちでした。しかも、展覧会の作品は一体誰のために描くのか、くろうと同志でうなづきあっているような絵ばかり多くてこれでは絵は民衆から離れてしまうばかりだ。そんなことを言うばかりでした。「さしゑやカットの批評もしなくちゃ」などとときどきは言いながら、わたし自身はいっぺんもそれをしませんでした。
週刊誌のはんらん、ばかりでなく、そんなはんらんのづっと前から日刊紙はもちろん月々の雑誌面で、さしゑはいつも民衆に親しいものでした。それはいちどだって民衆からはなれたものであったことはありませんでした。明治時代の富岡永洗や武内桂舟や水野年方や梶田半古はわたしたち年輩の者では話にきくだけですが、鰭崎英朋や鏑木清方の新聞小説のさしゑはこどもごころにおぼえています。わたしがいちばんはじめにいいなあと感心しながら毎日それを見るのがたのしみだったのは、上司小剣の小説「東京」の新聞さしゑ、石井鶴三でした。
石井鶴三はその後、「大菩薩峠」のはじめのころのさしゑでひょうひょうとした味を見せてくれました。「宮本武蔵」になってからは、わたしはあまり感心しません。どこか手なれすぎた感じがあるうえに、矛盾したような言いかたですがギコチないところを感じるようになったからです。(つづく)