『報知新聞』の此の前後三年に渉つた「山」から一束の繪かきを摑まへて來て踊らせる試みは、自然と、その後、各新聞各雑誌が擧つて「山」から繪かきを引張つて來る傾向に対する前提となり、繪かきにとつては又、彼が「山」から「挿繪界」へ行く道順に不思議のないと云ふことを示す、これが瀬踏みとなつたのである。思へば廣瀬君は、近代ジャーナリズムの上から云つても、面白い適時打を放つたものであつた。そして、あの「石井鶴三」一人ではいけない。曰く「川端龍子」「山本鼎」「河野通勢」「木村某」……とずらりと摑まへて來なければ、チャンス


が、又、更にあの場合、正直に云つて、我々報知の『富士に立つ影』連中の出來榮えだけでは、未だいけなかつた──その折りも折り、日日新聞側から、時運に對して、ドエライ掩護砲を放つたもののあつたのが、有名な巨弾『大菩薩峠』の挿繪である。


小説『大菩薩峠』(中里介山氏作)は、その前編は古く『都新聞』に載つて、挿繪は井川洗崖が描いたが、その後暫く間を措いたのを、大正十四年に至り、卒然と石井鶴三挿繪で『日日新聞』へ巻土重來したものだ──ところが、この鶴三挿繪が巨弾だったのである。」(『近代挿繪考』)