石井鶴三:画、吉川英治「宮本武蔵」は朝日新聞紙上に、昭和10[1935]年8月から14年7月まで、その間半年ほどの休載をおいて連載された。挿絵の前半は矢野橋村が担当し、後半にあたる「空の巻」「二天の巻」「円明の巻」を鶴三が描いた。

 鶴三の挿絵は評判が良くかつて何度も出版され、古書で容易に見ることが出来る。今回入手したきれいな状態の函に入った石井鶴三:画『宮本武蔵挿絵集』(朝日新聞社昭和18年)をはじめ、『現代名作名画全集2 石井鶴三集』(六興出版社、昭和29年)や、新聞掲載時の全挿絵を収録してある矢野橋村・石井鶴三:画 /吉川英治宮本武蔵』全6巻揃(中央公論社、昭和38年)、そして矢野橋村・石井鶴三:画/吉川英治宮本武蔵 挿絵名作集』(六興出版、 昭和59年)、 『石井鶴三全集』全14巻(形象社、昭60年)などがある。


1937年以来中国大陸で続いていた日中戦争支那事変)を包括し1941年12月7日(ハワイ現地時間)に始まる太平洋戦争へと、製版技術者の応召が続出し、技術水準が低下したため製版印刷の効果を考慮して原画を執筆したという。「空の巻」「二天の巻」ではハイライトを用い、「円明の巻」では線描の凸版にもどし、トーンをだんだんと単純化させた鶴三の腐心する様子が掲載した挿絵からも見ることができる。


石井鶴三:画『宮本武蔵挿絵集』(朝日新聞社昭和18年



石井鶴三:画、「空の巻」(吉川英治宮本武蔵朝日新聞



石井鶴三:画、「空の巻」(吉川英治宮本武蔵朝日新聞



石井鶴三:画、「空の巻」(吉川英治宮本武蔵朝日新聞


この「宮本武蔵」に挿入された石井鶴三の挿絵について、尾崎秀樹が「みずゑ」に論考を寄せているので転載させてもらおう。


 「大菩薩峠」につづいて、森田草平「吉良家の人々」(昭和4年)、直木三十五「南国太平記」(昭和5-6年)、子母沢寛国定忠次」(昭和7-8年)、「松五郎鴉」(昭和8年)、吉川英治「松のや露八」(昭和9年)、直木三十五「日本剣豪列伝」(昭和9年)、白井喬二「磐獄は叫ぶ」(昭和9年)、吉田絃二郎「青鵐」(昭和10年)、村松梢風「東海美女伝」(昭和10-11年)、尾崎士郎「「去る日来る日」(昭和13年)などを執筆するが、昭和十年代の話題はなんといっても吉川英治の「宮本武蔵」である。
 「宮本武蔵」は朝日新聞紙上に、昭和10年8月から14年7月まで、その間半年ほどの休載をおいて連載された。挿絵の前半は矢野橋村が担当し、後半にあたる「空の巻」「二天の巻」「円明の巻」を鶴三が描いた。
  吉川英治の「宮本武蔵」はそれまでの仇討を軸とした講釈ネタの剣客物語とはことなり、きびしい戦乱の時代を生きる青年タケゾウの求道者としての歩みに光をあてた成長小説であり、武蔵の人物像も従来の剣客像とは違うはずであった。石井鶴三はその期待にみごとにこたえ、剣禅一如の世界を求めて精進をつづける青年武蔵の像を造形している。
 「大菩薩峠」ではハイライトをさけたが、「宮本武蔵」では部分的に活用しており、製版技術の向上に眼を配っていることが、そのことからも明らかだ。橋村の武蔵像にはなかった自然児武蔵のバイタリティと気迫が画面にあふれ、可憐なお通、前髪立の佐々木小次郎、あるいは城太郎や伊織、それにお杉ばばあなど印象にあざやかなキャラクターを造形していた。
 昭和十八年四月に『宮本武蔵挿絵集』が朝日新聞社から刊行された時、吉川英治は序文を寄せて次のように述べた。
「画として描き現わされた作品のなかの人間を、作家の側から見ていると、その骨胎はもとより原作者の与えたものに違いないが、鶴三氏は、それを更にもういちど自分のものとして理想化することを忘れない。
 だから鶴三氏の挿絵には、母心がある。哺育の愛がある。作品から受胎して彼は生み、乳をあたえ、脈々と自己の血をそれに搏とうとするのである。
 一木一草を描くにもそういう心もちのあるのが見える」
 鶴三は新聞の挿画は一種の版画だと考えていた。製版印刷の効果を考慮して原画を執筆したのもそのためだ。「空の巻」「二天の巻」ではハイライトを用いながら、「円明の巻」では線描の凸版にもどったのも、製版技術者の応召が続出し、技術水準が低下したことに対応するものだった。鶴三は彫刻を志してまず木彫を学んでいる。新聞挿絵を担当する場合も、悪い新聞ザラでどうしたら効果を出せるかに苦心した。木版画の延長線上に挿絵を描いたといわれるゆえんだ。
 小杉放庵はいう。
「音なしに構えた竜之助、まりの如くにはずむ米友、青年武蔵、前髪立ちの岸柳、悲恋のお通、実在の形をとって、石井さんの筆の下に誕生したわけだ。新聞の日日のよみ物の場合には、恐らくは作者もこの与えられた形態によって、作中の人物の活動進展に調子づけられる点があるだろう」
 「宮本武蔵」につづく作品としては、吉川英治「梅里先生行状記」(昭和16年)、尾崎士郎高杉晋作」(昭和18-20年)があり、戦後も長谷川伸「明治の鼠」(昭和22年)、吉川英治高山右近」(昭和22-24年)、尾崎士郎「春雁」(昭和24年)、海音寺潮五郎「蒙古来る」(昭和28年)、子母沢寛「父子鷹」(昭和30-31年)、尾崎士郎「小説国技館」(昭和34-35年)などがあった。
 昭和48年3月17日に、88歳で没したが、死の直前日まで馬の絵を鉛筆で描いていたという。
尾崎秀樹「現代挿絵考2 石井鶴三」『みずゑ』美術出版社、昭和62年6月)

石井鶴三:画、「二天の巻」(吉川英治宮本武蔵朝日新聞



石井鶴三:画、「円明の巻」(吉川英治宮本武蔵朝日新聞



石井鶴三:画、「円明の巻」(吉川英治宮本武蔵朝日新聞