今年の2冊目は「中川一政挿画展─石井鶴三・木村荘八とともに─」(中川一政美術館、平成6年)。この図録のすごさは、中川一政の挿画展であるにもかかわらず、石井鶴三:挿画、吉川英治「松のや露八」(「サンデー毎日」、昭和9年6月3日〜10月28日)や木村荘八:挿画、永井荷風「濹東奇譚」(「東京朝日新聞」、昭和12年4月16日〜6月15日)に掲載された挿絵を、「濹東奇譚」は34点、「松のや露八」は26点も掲載していることだ。そして中川一政は、尾崎士郎「人生劇場」(「都新聞」、青春編昭和8年など)と尾崎士郎「石田三成


三人の親しい交友関係を示すということもあるが、実はこの三人が、関東大震災後の上野のお山の洋画家たちが複製物であるマスメディアという新聞に小説の挿絵を描き、新聞小説挿絵を牽引し黄金時代を築いたといっても過言ではないからだ。更に三人は、岸田劉生らと共に春陽会の創設に客員として参加し、1927(昭和2)年に開催された第5回春陽展の会場では「挿画室」が設けられたが、小杉未醒山本鼎らとともにこの3人の存在が大きな力となったものと思える。本絵を飾る展覧会場に、それまでは蔑まれていた挿絵が飾られたのだから、大変な意識革命を起し、新聞小説の挿絵に多くの洋画家たちが参加するきっかけを作った。



中川一政挿画展─石井鶴三・木村荘八とともに─」(中川一政美術館、平成6年)



中川一政挿画展─石井鶴三・木村荘八とともに─」より転載。行司は木村荘八で、相撲に興じる中川一政と石井鶴三だが、鶴三は彫刻家であるが、洋画家たちによる新たな新聞小説の時代到来を象徴する写真でもある。


春陽展は大正11年に、山本鼎、足立源一郎、長谷川昇小杉未醒、倉田白羊、森田恒友梅原龍三郎の7人が発起人になって創設された。

中川一政挿画展─石井鶴三・木村荘八とともに─」より転載。春陽会創設のメンバー達。



中川一政:挿画、尾崎士郎「人生劇場」風雲篇その4(「都新聞」、昭和9年6月3日)



石井鶴三:挿画、吉川英治「松のや露八」その14(「サンデー毎日」、昭和9年8月19日)

こうして二人の挿絵を並べてみると、よく似ているのが判り、中川一政がいかに鶴三に心酔していたかが分る。



中川一政:挿画、尾崎士郎石田三成」その1(「都新聞」夕刊、昭和13年4月29日)



石井鶴三:挿画、吉川英治「松のや露八」その20(「サンデー毎日」、昭和9年9月23日)


人物の骨格を重視した描き方だけではなく、構図や画面の中の人物の配し方や大きさなど、ことごとく鶴三の挿絵を研究していたものと思われる。


片岡撤兵「生ける人形」の挿絵を描いたときに、「私は記憶で画をかくという習慣も才能もないから、モデルになってもらう人を探した。幸い国木田独歩の次男坊の彫刻家が近所にいたから、遊びにくるたびモデルになってもらった。」(「中川一政挿画展─石井鶴三・木村荘八とともに─」)とあるが、この写生重視の姿勢も、鶴三や荘八に共通する描き方だ。


鶴三が『大菩薩峠』の挿絵を担当したときは、実際に大菩薩峠まで何回も足を運びスケッチを繰り返したというし、荘八が「濹東奇譚」の挿絵を担当したときは、やはり毎日のように玉ノ井に通ってスケッチをしたという。このように、何度もスケッチを繰り返してから描く本絵(タブロー)と全く変わりない方法をもって描かれる挿絵の確かな制作態度を、一政は学び取っていたのだろう。


木村荘八:挿画、永井荷風「濹東奇譚」その7(「東京朝日新聞」、昭和12年4月23日)



木村荘八:挿画、永井荷風「濹東奇譚」その8(「東京朝日新聞」、昭和12年4月28日)


「女を描くことが苦手だった中川一政に、木村荘八がモデル人形を貸したこともあるという。」(「中川一政挿画展─石井鶴三・木村荘八とともに─」)



中川一政:挿画、尾崎士郎「人生劇場」風雲篇その10(「都新聞」、昭和9年6月27日)



木村荘八:挿画、永井荷風「濹東奇譚」その21(「東京朝日新聞」、昭和12年5月15日)
荘八の描く絵は、女性の色気や美しさを追及するのではなく、風俗画の中の一つのモチーフとしてとらえているような印象がある。玉ノ井の習わしやしきたり、髪形や服装などを丹念に描いている。