もう一人のゲテ造本製本家内藤政勝。『ゲテ雑誌の話』、『日本好色燐票史』など、書物展望社以外で刊行された齊藤昌三のゲテ本の多くは内藤が担当した。

自著を製本する『造本小僧』(水曜荘限定版刊行会、昭和28年8月31日)、第三の紙ユーパールを使用若山八十氏『魔法の鳥』(書物展望社、昭41年)等の内藤の仕事ぶりをみてみよう。



内藤政勝:造本、内藤政勝『造本小僧』水曜荘限定版刊行会、昭和28年8月



内藤政勝:造本、内藤政勝『造本小僧』函、水曜荘限定版刊行会、昭和28年8月


齊藤昌三との出会いは
「初めて僕が茅ケ崎の東海岸、少雨荘邸のモンをくぐったのは、旅の趣味会の伊藤君が主催で、少雨荘訪問の会に参加したときだ。……僕が持参した先生の“蔵書票の話”の扉に、書を積んで……の句を書いて下さつたのもこの時であった。その後間もなく僕の新富町詣となつたわけだが……。……慣れてくると図々しくなるのか、持ち前の甘つたれを発揮して是非一冊私に造らせろと、せがんで出来たのが“げて装本の話”だ。昭和十八年の春のことだつたと思う。


処でこのげて装本の話は中身が中身だけに、僕も大いにげて気分を出したが、お蔭であの時幾日か工場の倉庫にもぐり込んでボロの包みを引かきまわした。それから疎開、げて雑誌の話、当世豆本の話と書物随筆三部作を完成させ、続いて好色蔵票、燐票史の二冊が出来たが、残りの日本好色広告史は未だ出来ない。百冊別装の海相模をしんがりに、青園荘版少雨荘ものはこの処一寸一息入れたかっこうだ。」(内藤政勝『造本小僧』水曜荘限定版刊行会、昭和28年8月)


と、昌三のファンの一人として近づいたようだ。当時内藤は製本をなりわいとしていたのではなく、「生憎私は勤めていたので、昼間は時間がない為印刷所との連絡は夜になった。」(前掲『造本小僧』)と、詳細は分らないが、勤め人だったと記している。


「『げて装本の話』は少雨荘先生の青園荘版としての第一冊目の本である。純粋造本こそ最高の造本芸術である……と主張する一部のへそ曲り人間に対して、それ以上にへそ曲りに終始した少雨荘斎藤昌三先生のげて装本談義である。当然この本の書容もそれで行くべきであり、そうすべきであると私は確信し実行した。


書型を先生が主宰された趣味誌“いもづる”から採っての長方型、本文用紙を極薄の雲竜紙にしたのは次のような考想からである。袋綴じの入紙にノドをはさんで中央に大きく青園荘のマークを、本を開いて右肩に書名、左下に刊行所名を木版にしてこれを赤いインキで刷らした。うすい和紙をすかしてこの赤いのれんが浮き上がつている効果を狙っての手段であるが、先ず先ずと自讃している。


尚この本の装布は勤務先きの作業場で日常油拭きとして工員達が使用するウエスと称するボロ布から探し出した。多種多様、木綿麻布その他いろいろ柄も模様も全く一冊一装。これに南部のめくら暦を貼り合せ、題簽には先生の文字でネームプレートを造つて使用した。」


と、可能なかぎりの勢力をつぎ込んだゲテ本が完成した。が、私はまだこの本を見たことがない。

「この年、少雨荘先生の『ゲテ雑誌の話』を造った。この本の装幀も関野さんであり、装画をネームプレートでこしらえて、本の両面に嵌入した。地は茶色の和紙、私がエナメルをエヤブラッシュで吹きつけて造った。」


と、このころは戦争末期で『ゲテ雑誌の話』と同じころに『雨月物語』を造っていた時の話を
「常盤台の家の四辺にも空襲の波は徐々に立ち始めてきた、防空壕に収納することすら危険を感じて、この刷本を後生大事と背中にして、子供を連れて闇夜にサーチライトの照らす空を見上げ乍ら逃げ廻った家内の姿や、当時のさまが走馬灯のように今も私の頭の中を駆けめぐる。」(内藤政勝『造本覚え書』コツ雨豆本30、昭和52年)


と、回想している。



内藤政勝:造本、齊藤昌三『ゲテ雑誌の話』(青園荘、昭和19年11月)限定100部