齋藤昌三七部作の中からゲテ本として、強い特徴のある本を5冊選んで紹介しよう。

❶『書痴の散歩』



『書痴の散歩』(書物展望社昭和7年11月)


この本は昌三の最初の随筆集であり、書物展望社のゲテ本としては、『恭古随筆』『魯庵随筆紙魚繁昌記』『魯庵随筆読書放浪』に続く、第4番目の廃物利用の装丁になる。思い入れがあるようで、この本については何度も制作の裏話を書いている。


「自分の処女随筆集は『書痴の散歩』と命名し、昌三に因む少雨荘から雨に関係するものといふので、日本固有の番傘の古いものを応用したのであつた。こう並べて来ると益々廃物屋になって了うが、毎度いふ通り趣味的に捜せばわが国には材料が無尽蔵であることを暗示したに過ぎないので、この古傘の如きは製本に際しての加工には多少の苦心も要するが、耐久力に於ては革や布以上であり、湿気虫害にも堪えるもので、偶然にも本書の出来上つて製本所に積み上げられた夜は、数十年来に會てない強雨で、工場も多少の雨漏りを見たのだつたが、本書は能くそれに堪へたので大笑ひしたこともあつた。この見返しは明るい和紙の地色に、銀線の雨を降らして、春雨気分とし、自然に表紙の番傘を説明したのであつた。」(齋藤昌三「少雨荘装幀記」、『書淫行状記』書物展望社昭和10年1月)


昌三だけではなく、書物展望社の本の製本を一手に引き受けた昌三の片腕とも言われる中村重義は、
「私が斎藤先生を知つたのは三十数年前、昭和の初期辻潤先生の紹介で始めてお目にかかり、その晩から飲み歩きが始まった。……そんなある日、先生から《中村君今度自分の随筆『書痴の散歩』を番傘の装幀で作りたいが何かいい案がないか、まだ君の仕事を見た事がないが、君の腕を見せてくれ》と言われ、それは面白い案だとお引き受けして、早速自家用? の番傘をコワして見本を造った、評判がよかつた。先生も大喜び、早速本番となつたが、困つたことには四百本からの古番傘を集めることだ。知人に頼んだり、大雨の朝二人して拾い集めてみたが二十本と集まらない。困つた時は知恵のでるもので、下谷の屑屋の立場(タテバ)へ行つて頼んでみた。気持ちよく引受けてくれたが、但し自分たちで探してみろ、とのことで、二人して屑屋の倉庫へ入ってビックリした。あるわあるわ山のようにあつたが、使えるものは一本もない。一日掛かり四百本程掘出して一安心、とに角一風呂浴びてと白山に行き、前祝いに先ず一杯、あくる朝、僕は先生が持つていると思い、先生は僕が持つていると思っていた。僕は十円位持つていたが、傘一本二銭の割で屑屋に支払つたので、文なし、仕方なく水谷書店へ電話して主人に届けてもらい、支払いを済ませて帰つて、それから半月あまり毎日傘はがし、先生も毎にち手伝いに来て兎に角出来上つた。


思ったより評判がよく、一人で三冊も申込む人もあつて忽ち売り切れ、それでも増刷はしなかつた。ソコが先生のいいところ、扨(さて)それから装幀材料として、どこで探してくるのか、おでんやの女将さんの前掛け、女帯、娘義大夫の肩掛け、蛇の皮、竹の皮、鮭の皮、古新聞など沢山集めてきて、これで装幀研究しておけと言われて、次々とゲテ物製本を六七十種も造ったが、どれも好評だったと思う。これも先生の趣味と努力だったと思う。」(「日本古書通信 斎藤昌三翁追悼特集」第27巻第2号、昭和37年2月15日)と、苦労話をしながら懐かしそうに振り返っている。