これは、中一弥:画、山手樹一郎「甘辛鼠小僧」(博文閣、『娯楽倶楽部』昭和27年11月号)の挿絵で、中氏が41歳の時に描いたものだ。細い線に張りがあって力強く、魅力的な絵に仕上がっている。挿絵が掲載されているスペースも2ページ分使われており、その分、原画が大きく描かれているだろうから、絵が伸び伸びしてみえるということもあるだろう。



中一弥:画、山手樹一郎「甘辛鼠小僧」(博文閣、『娯楽倶楽部』昭和27年11月号)、中氏41歳。



中一弥:画、山手樹一郎「甘辛鼠小僧」(博文閣、『娯楽倶楽部』昭和27年11月号)


「デビューしたころは、ケント紙を使っていたんですが、昭和8年ごろから少年雑誌に描く以外は、和紙を使って描いていました。中でも、画仙紙によく似た煮錘箋(しゃすいせん)という中国の紙があってそれが気に入って、だいぶ長い間、使っていました。濃い墨でちゃんと描いた下絵に煮錘箋を乗せると、それほど薄い紙ではないんですが、下絵の線が透けて見えるんです。それを写しながら仕上げるわけです。少々にじむんですが画仙紙のにじみとちょっと違うんです。しかも、下絵をつくってあるから、気に入らないと、何回もやり直せるわけです。」(前掲『挿絵画家・中一弥』)と、煮錘箋に墨で描くのが、仲氏の描画スタイルのようだ。



中一弥:画、山手樹一郎「甘辛鼠小僧」(博文閣、『娯楽倶楽部』昭和27年11月号)



「昭和三十六年に『報知新聞』で有馬頼義さんの『虚栄の椅子』を描きました。……これは麻紙で描いたんですが、わりあいといい絵が描けました。……そのころは、まだ筆が立ったんです。ところが、年を取ると、筆がもてなくなるんですよ。五十代の初めに、池波さんから、中さん、ペンの絵が面白いよ、と言われて、それも頭にあってだんだんペンで描くようになりました。池波さんとの仕事でいえば、『近藤勇白書』からペン画なんです。でも僕の絵は、筆で描いたか、ペンで描いたか、わからないと思いますよ。ぺんでも、筆のように仕事ができるわけです。」(前掲『挿絵画家・中一弥』)と、「五十代の初め」昭和36年ころから、ペンを使い始めたようだ。


「筆で描いたか、ペンで描いたか、わからないと思いますよ」と言っているが、そう思っているのは本人だけで、下記の2点の挿絵を比較してみれば一目瞭然。素人の私にも、筆で描いたのかペンで描いたのかは、見分けがつく。中氏は、筆とかペンとか、道具が変わっても絵は変わらないと言うつもりであったのだろう。



中一弥:画、竹田敏彦「地獄を憧れる女」(矢貴書店『小説の泉』昭和23年7月)、中氏37歳。



中一弥:画、池波正太郎鬼平犯科帳 女密偵女賊」(文藝春秋『オール読物』1987年12月号)、中氏76歳。


上の絵は、筆で描いた挿絵だが、腰から太股にかけての線などは、見事に流れるように、太い線と細い線で強弱がつけられており、色っぽさをいや増すのに成功している。
一方、下の絵の、特に手前の竹の部分などは、線の太さが針金のように同じに描かれており、一本の線の中に筆のような強弱が見られない。