自分なりに努力をし、研さんを積んできたという自負はあったが、やるべき時期に学校に通って基礎的な勉強が出来なかったという負い目を感じていた。そんな光に自信をくれたひと言があった。


「麻布三連隊の写生会は、たしか昭和十八年頃の様に記憶している。吉田貫三郎・三芳悌吉らの画友も次々に兵隊に取られた。私は丙種のせいもあって、昭和二十年に入るまで東京にうて挿絵を徹夜で描いていた。世間は僕を挿絵画家と思っている。事実、僕の描く挿絵と油絵では比較にならなかった。白日会。東光会・二科と渡り歩き、やっと一水会に定着し、平会員にして貰った位のところである。


四、五日立った頃、松田(文雄)が賑やかに現れた。二十三貫の彼は、笑うと童心溢れる顔になった。『田代君喜べ、俺は君に伝えたくて藤田先生のところからとんで来たんだ。』彼自身が大満足しているかに見えた。


彼が私に伝えてくれた話は、この前と同じであった。松田は牛込河田町にアトリエがあったから、四谷の藤田邸とは間近だった。彼はおそらく三日にあけず、〝今日は〟と現れる男なのであろう。人なつっこいというのか、物に動じないというのか、僕は天才的だと思った。


藤田家に、細川渡之さんがお見えになり、談はたまたま僕のことに及び、〝田代君のデッサン力は云々〟ということになったというのだ。僕は松田に感謝し、「よく伝えてくれた。」と握手した。


僕の胸中の雲はふくれ上がり、血がたぎった。私は生まれて初めて、満足感と充実感に燃えていた。ありがとうございます。先生は本当のことをおっしゃったのだ。甘やかしでも、煽てでもなかった。初対面の三十前の若僧に、本当のことをいってくれたのだ。


挿絵画家であるために、画壇は我々に一線を引いて来た。
僕は藤田嗣治という人を改めて考えてみた。本当の人だったのだ。俗に本物というが、先生は本物だったのだ。藤田先生は経歴や過去にとらわれないのだ。自分に対する自信と見識が人一倍あるのだ。軍医総監の子として生まれ、腕一本で喰うや喰わずの生活の中から〝世界のフジタ〟にまで押し上がり、大成したひとである。」(田代光『変手古倫物語』美術倶楽部、昭和56年)と、陸軍美術家協会会員達が麻布三連隊で写生会を開催することになり、藤田嗣治が参加するというので、松田文雄が「君は東京っ子だろう。藤田先生も東京っ子だから、会ってみなよ、うまがあうよ」と、岩田専太郎と光を誘ってくれた写生会での藤田の講評のひと言が、光に大きな力を注いでくれたのだ。


写生会のあと、松田は『先生のとこへ行こう。』と言って歩き出した。岩田さんと三人で、四谷駅の近くだという藤田先生のアトリエに向かった。
 藤田邸で光は「一通り終ったところで、僕は祐希を出して先生に批評を請い、6号の油絵とスケッチブックを差し出した。心臓は高鳴って、身体は緊張しきっていた。先生は近視の目で、目をはわせる様に見て、更に周囲の人達にも見せた。そして、『田代君のデッサンは、宮本君より力強くていいね。』といった。僕は厚く礼をして、その場を辞した。……先生の発した一語は、僕をかなり興奮させていた。……興奮はなかなか醒めなかった。今日初めてお目にかかって、初めてみて頂いただけで宮本三郎と比較するなんて……。しかし、そのまま戴けなくても〝世界のフジタ〟が賞讃してくれたことに間違いはない。込み上げてくるものがあった。」(前掲書)


また光は、藤田がデッサンするのを目の当たりに見て、見て『力感はピカソマチスを始め、パリの画壇で腕一本で生きぬいてきた人の底力を見たような気がした。』」と大きな感動をも味わっていた。