イラストレーションの力を見せつける話は、今回の『人間失格』が初めてというわけではない。話の内容は全く異なるが、1924(大正13)年に勃発したいわゆる「高畠華宵事件」にも、メディアを揺るがすほどのさし絵の力の大きさを見ることが出来る。


大正2(1913)年、華宵は知人を介して講談社に縁ができ、『講談倶楽部』に挿絵を描くようになる。翌大正3年には『少年倶楽部』にも描き始める。加藤謙一が編集長になった大正10年ころからは描く本数もふえ、話題作の「竹松の竹馬」などもてがけるようになる。


高橋光子『高畠華宵とその兄』(潮出版社、1999年)によると
「大正十年八月号を見てみると、
表紙は「野営」
挿絵は「竹松の竹馬」(連載)上司小剣
   「盛綱先陣」(連載)大川白雨
   「少年の憧憬」(連載)平尾白暮
   「印度洋の伏魔団」(連載)高辻暮水
   「アマゾン河探検旅行記」永田稠
   「食人種島の実地探検」窪田十一
となっている。一冊の雑誌で四編の挿絵を一人の画家が受け持つということは、ふつう常識では考えられないことである。」
と、加藤謙一の華宵への入れ込みようが伺える。


『現代』『面白倶楽部』『婦人倶楽部』『少女倶楽部』など講談社の出版物の他、『婦女界』『少女画報』『金の船』などの挿絵も描くようになる。



「華宵事件」が勃発した当時、華宵は、ほぼ講談社の専属に近いかたちで、同社が発行する雑誌のほぼ全誌にさし絵を描いていたが、講談社高畠華宵との間で画料問題がこじれ、両者の折り合いがつかなくなった。「私は御社の専属のつもりで描いているのに、こればかりのことをきいていただけないのなら、御社へ描くのはごめんこうむりましょう」(加藤謙一少年倶楽部時代』講談社、昭和43年)と華宵はおりることになった。



装画:高畠華宵少年倶楽部』第9巻11号11月号(大日本雄弁会講談社、1922〔大正11〕年)



装画:高畠華宵少年倶楽部』第9巻2号2月号(大日本雄弁会講談社、1922〔大正11〕年)


「困ったのは私の少年倶楽部である。そのころすでに華宵と少年倶楽部の間は蜜のごとく濃く、口絵もさし絵も何もかもとのぼせきっていたその恋人にいなくなられたのである。ただいなくなったのではない。宿敵日本少年にさらわれたのだ。しかも相手は、『われわれの華宵が描く日本少年をみよ』などとうたい出して大宣伝をする。華宵描くところのあのなやましげな美少年に魅せられていた少年倶楽部の愛読者は、われもわれもと日本少年に走ってゆく。まるで女王バチを追っかけるミツバチのむれのように。当然の結果として部数がガタ落ちとなった。」(前掲)



装画:高畠華宵『日本少年』2月号(実業之日本社、1927〔昭和2〕年)



装画:高畠華宵『日本少年』5月号(実業之日本社、1929〔昭和4〕年)



挿絵:高畠華宵、池田芙蓉「馬賊の唄」(『日本少年』実業之日本社、1925〔大正14〕)



装画:高畠華宵『婦人世界』6月号(実業之日本社、1927〔昭和2〕年)


大正十四年の新年号が四十万部という創刊以来の記録を立てたのに、華宵が抜けた大正十五年の新年号は十五万部減の二十五万部に落ち込んだという。しかし加藤は、幼年倶楽部とキングの創刊に「頭はキングに削られ、足は幼年倶楽部にさらわれ宙ぶらりんのヘンテコな少年倶楽部になってしまったのだ。これじゃ四十万から二十五万に落ち込むのも当然。」(前掲)と、高学年のターゲットはキングに、低学年のターゲットは幼年時代にとられ、同じ社内で購読者をとりあったせいだ、と分析している。