華宵に代わる実力派新人挿絵家誕生!


神州天馬侠』の挿絵を描くことになった時の様子を、山口将吉郎みずからが月報に下記のように書いている。


関東大震災のあった大正十二年の翌年の秋頃だったと思う。当時住んでいた谷中三崎町の陋屋に突然来られた二人の客があった。どちらも初対面だったが、先達の一人は、当時の新興出版社、講談社の「少年倶楽部」編集長加藤謙一さんで、もう一人の和服の客は、あまり風采が地味で物腰が柔らか過ぎて丁重だったので、世間知らずの私には、最初絵の具屋さんか、書画屋さんではないかと、おかしな錯覚を起こした程だったが、これが吉川さんだったのである。」(『吉川英治全集月報5』(講談社、1966年)


「『今度、少年倶楽部に連載の小説を書くことになったので挿画の方をやって戴けないか』というお話で『これが一回分の原稿です』といって、原稿は加藤さんの手から手渡されたように記憶する。……二人が帰られてから早速原稿を読んだが、これが『神州天馬侠』の第一回だった。そして完全に魅了されてしまった。


溌溂とした新鮮さ、身体中の血が沸き返ってくるような迫力、変転自在な面白さ、それに何より大自然の詩情を溶かしこんだ文章の巧さ! その夜私は、団子坂下の荒家のような講談社に走って加藤さんに会い、是非ともこの挿画は私に描かせてほしいと告げたが、感動のあまり『この作家は必ず日本一の大作家に成長するに違いない』と云い切って、加藤さんを面食らわせたものである。」(前掲)


そんな将吉郎にも一抹の不安があったようだ。
「然し、小遣い稼ぎで挿絵を一年許りやってきた自分には荷が重すぎた。プロ野球で変化球を全く打てない学生上がりの選手が、いきなり三番四番をうたされたようなもので、心身を消耗する許りだったから、はた眼にも悲壮極まるものであった。遂々最後は疲れ果てて、本格の風俗画家に救援を仰ぐ破目になった。何分ろくに人物を描いたことのないような、しかも芸能人的素質の欠如している自分としては止むを得ぬ結果だった。」(前掲)



挿絵:山口将吉郎『吉川英治全集別巻1 神州天馬侠』(講談社、昭和40年)、連載第3回目の「麒麟兒 三」黒具足組と戦う忍剣。


そういって、一応謙遜する将吉郎だが、その後にしっかり自慢している。
「その拙い絵でも一般では、相当喜ばれたらしく、講談社から殊勲賞として野間清治社長好みの……ノートルダム寺院の形をした金色燦然とした巨大な置時計を贈られた。」


「長い外遊生活から帰えられた恩師勇気素明先生が……『山口にこんなことが出来るとは以外だった」と云われ、中でも『天馬侠』の鼻欠けト斎が岩の上に腰をかけて煙草をふかしている場面の画を『これは面白い、なかなかよく描けている」と云われた事を同門の先輩から聞かされて嬉しかった記憶がある。」(前掲)と、評判の高さに、本人もまんざらでは無かったようだ。

 

挿絵:山口将吉郎『吉川英治全集別巻1 神州天馬侠』(講談社、昭和40年)



挿絵:山口将吉郎『吉川英治全集別巻1 神州天馬侠』(講談社、昭和40年)


躍動感といい、顔の表情といい、新人とは思えない力量を見せつけて、将吉郎、絶好調ですね。


こうして山口将吉郎と吉川英治の名コンビが誕生し、その後もたくさんのデュエットをしています。
ざっと列挙してみると、
◆「武田菱誉の初陣」(大正14年)◆「神州天馬侠」(大正14〜昭和3年)
◆「捨児の歌」(大正14年)◆「ひよどり草紙」(大正15年)
◆「江戸三国志」(昭和2〜4年)◆「月笛日笛」(昭和5〜6年)
◆「牢獄の花嫁」(昭和6年)◆「魔海の音楽師」(昭和6年
◆「もつれ糸巻」(昭和7年)◆「恋山彦」(昭和9〜10年)
◆「きつね雨」(昭和9年)◆「胡蝶陣」(昭和9〜10年)
◆「左近右近」(昭和9〜11年)◆「朝顔夕顔」(昭和10〜11年)
◆「篝火の女」(昭和10年)◆「魔金」(昭和11年
◆「やまどり文庫」(昭和12〜13年)◆「新版天下茶屋」(昭和14〜15年)
合計18作品もある。